Episode 1 : またまた出発日繰上げ。さようならバンビ。
週末の出発を控えていた9月5日の朝6時半頃、姉からの電話が。
そんな時間に電話があること自体、緊急感を覚えてしまう。真っ先に脳裏をよぎるのは母のことである。発熱なのか、また誤嚥肺炎でも起こしたか、最悪の場合か、何があってもおかしくはないお年頃の93歳だ。
応答すると、姉の愛犬のトイ・プードルのバンビ(雌)が未明に亡くなったのだという。
姉は2010年の1月に夫を亡くしている。当時、まだ50代前半だったと思う。膵臓癌による若過ぎる逝去であった。その彼女の精神的支えになり続けていたのが、義兄の死後、迎え入れたバンビなのだ。
母の緊急事態では無かったことは一安心だが、これはこれで大問題である。
電話してきた彼女の望みは、その日中に僕に小田原に戻って来れないか、ということだった。生真面目な彼女は、そもそも今週来る予定のある僕が予定を早めて戻って来て、自分は仕事を休めないから、今日の日中はバンビの側に居てやって欲しかったのだという。それは無理だ。
容体の急変したバンビのために姉は、一晩中動物の救急を探して電話を掛け続け、深夜3時過ぎにやっと病院を見つけ、向かうその車中で、姉に抱かれたまま、最後にアイ・コンタクトを交わしてバンビは息を引き取ったのだという。肺気腫だったらしい。13歳。犬としては寿命とも言えるだろう。
当然一睡もしていない姉は、結局その日は仕事を休み、たまたま空きのあった動物の葬儀屋を見つけ、バンビを荼毘に付したとのことだった。
当日に駆け付けることは無理だったが、姉のメンタルも心配だったので、出発日を更に1日早め、9月7日木曜日に名古屋を出発した。おりしも台風13号が関東/東海地方に接近中。翌日に不動産屋さんとの打ち合わせが14時からあることを考えるとこれで良かったのかも知れない。
姉の帰宅前に到着した。
8月以来の姉の家は、バンビのトイレやエサのトレイなどが片付けられている分、スッキリとしていた。それが寂しさを感じさせる。前回の小田原帰郷の際は、僕らの布団の上にそっとウンチをしてくれていたバンビだが、そんなことももう起きようもない。あの時はオシッコじゃ無くて良かったな、などと思う。
このブログでも以前書いたが、名古屋の僕のベースのひとつ、鹿子公園を、「鹿子、鹿の子、子鹿のバンビ」で「Banbi Base」と名付けたのも、当然、バンビという存在がいたから、である。
その後帰宅した姉は憔悴しきっていた。依然ろくに眠れず、食事も全く喉に通らないという。それどころかたまに呼吸が出来なくなるらしい。掛ける言葉も無い。実際「なんかスッキリしたな」などと口にした瞬間に「何も言わないで!」とピシャッとシャット・ダウンさせられてしまった。
それでも僕の分の夕食の買い物はしてきてくれていた。人が居ることが必要な様だ。もちろん母はいるが、母は正直恍惚の人である。家に帰った時にバンビが迎えてくれた様に、「ただいま」に対して「お帰り」の声が必要なのだ。
その後、姉ちゃんは徐々に回復の兆しは見え始め、喋り始めた。何も喉に通らないということで、ウチの奥さんが名古屋で持たせてくれた水羊羹は食べられた。
もうあとは時間が薬である。
翌9月8日金曜日。そもそも出発を予定していた日だ。この日は不動産屋さんとの打ち合わせが入っている。
朝8時ちょい前に起きると、ほとんどそれとすれ違いに姉は出勤していった。ほぼ同時に母を介護するヘルパーさんがやって来て、着替え、朝食などの面倒見てくれる。8時40分、デイ・サービスがお迎え。母は連れられて行く。そして僕だけが家に残った。
奥さんとFaceTimeで話したり、動画を見たり、本を読んだりして過ごして後、打ち合わせに向かった。打ち合わせそのもは前回の再確認的なことを、前回不参加だったもう一つの不動産屋さんをZOOMで交えてやった、という感じ。
その後、小田原の元自宅に寄り、明日からの旅に要らない道具を車から下ろして、今回持ち帰るものを確認し、近所の野菜無人販売所で野菜を買って帰った。
さあ明日からはNUDE Vol.2だ。Taguchiのスピーカーを思いっ切り鳴らせる。Taguchiのスピーカーを鳴らすことは僕にとって故田口社長を悼むことでもある。
今回はそれにバンビへの追悼の気持ちも添えておこう。さようならバンビ。今まで姉ちゃんを支えてくれてありがとう。