再鎖国論 / Ackee & Saltfish
- 壹「支度の語り」
- 弍「鎖せ扉」
- 参 Skit 1 「秩序維持としての教育」
- 肆「待った無し ~ Born Japanese~」 (Album Version)
- 伍 Skit 2 「名刀兼房 鍛錬の響」
- 陸「櫻」 (Album Version)
- 漆 Skit 3「監視システム」
- 捌「WATCH DEM A WATCH」
- 玖「暴露」
- 拾 Skit 4「提言」
- 拾壹「己の敵は、、、」
- 拾弍 Skit 5「汽笛」
- 拾参「SKANKIN TRAIN」
- 拾肆 Skit 6「証言」真田新之助
- 拾伍 「名古屋大空襲六十五年目」
- 拾陸「見果てぬ夢の向こう」
- 拾漆「始末の語り」
2010年にリリースされたAckee & Saltfishの5作目のオリジナル・アルバムにして最大の問題作。そして最高傑作。
ここで聞ける彼等の音楽は決して「ジャパレゲ」というジャンルにカテゴライズされるものではない。その文脈の中では絶対に読み解くことは出来ない作品である。
更に言うなら、この作品を右翼的思想のプロバガンダとして捉えるのも全く以って正解ではない。
本作は、日本人が日本語で作ったレベル・ミュージックの最高峰の娯楽作品として聴く、というのが最適解なのではないかと僕は思っている。
例えるなら「和」をモチーフとし、最新のレゲエのフォーマットで武装したプログレッシヴ・ロック。何ならピンク・フロイドやキング・クリムゾンにも匹敵するインパクトを有していると思う。
もしくは、音楽様式としてのパンク・ロックを脱ぎ捨て、その精神性を受け継ぎ、レゲエとして進化させたポスト・パンクの最新形。
いみじくもジョン・ライドンは語った。「パンクとは変化である」。レベル・ミュージックとしての熱量を保ち続ける音楽こそが、ジャンルを超えて真のパンク・ロックなのである。
アルバムは岐阜県関市の刀匠二十五代藤原兼房日本刀鍛錬場で採取された、玉鋼を鍛錬する槌の響きをサンプリングした「支度の語り」から始まる。
吹子で酸素を送り込み、1300℃の高温にまで熱された玉鋼から不純物を取り除くその響きは、独特のリズムと掛け声を持ち、非常に音楽的である。そのビートに重低音を重ね合わせ、尺八の音色を乗せて構築されたトラックは秀逸。2人の和を意識したライミングも素晴らしい。
続く2曲目「鎖せ扉」は、硬派なビートに印象的なピアノのリフがカッコいいダンスホール・ナンバー。我が国における楽曲のタイトルとして、未だかつて「鎖せ扉」と銘打ったものなど他にないはずだ。扉とは普通、開かれることの象徴として意識されるもののはず。それを閉じてしまうのがこの前代未聞のオープニング・タイトルなのである。
そういうとこ気付いて聴いて欲しいよねー。
アルバムのテーマは幕末から現代社会にまで影響を及ぼす陰謀論的な話。名指しにこそしてないが、世界財閥の様な、ある意味都市伝説的な内容に言及している。そのことを意識して耳を傾けるだけでスリリングだし、物語の様で面白いと僕は思うのだが。
この作品がリリースされた2010年は、横浜開港150周年で、NHKの大河ドラマは「龍馬伝」をやっていた年。そのことに全く何の疑問もなく、何も考えることもなく、両手をあげて賛成して喜んでいていいのか、と問いかける。「鎖せ扉」、「待った無し ~ Born Japanese~」、「暴露」などでそうしたメッセージは顕著だ。
「櫻」は特攻隊員たちに捧げられた1曲。是も非も無い。ただひたすらにその命を敬う歌だ。それを「Love I Can Feel」のトラックに乗せているところが良いではないか。
彼等は提起した問題を投げっ放しにしている訳ではない。監視社会の中を生き抜くのは結局は自分の意思でしかないということを「WATCH DEM A WATCH」、「己の敵は、、、」では伝えている。
続く「SKANKIN TRAIN」はアッパーなスカ・ナンバー。迷える想いを詰め込んで、迷える皆を全員乗せて、心のザイオンに連れていく銀河鉄道の様な列車の歌だ。切れっ切れなライミングに圧倒されるクライマックスに相応しい曲。
そして戦争の恐ろしさを伝える「名古屋大空襲六十五年目」により、決して彼等が右翼的思想の軍国主義者ではないことが証明される。米国のもたらしたその事実の惨さ。結果的にそれを招いてしまった日本の愚かさ。名古屋在住の大空襲の生き証人、真田新之助さんの語った言葉をそのまま超有名なオケ「Billy Jean」に乗せるという離れ業が醸し出すホラーな仕上がり。驚愕の1曲だ。
最終局面、アルバムは、そうした想いも儚い夢と分かっていても伝えずにいられない2人の感情を、DJ YUTAKAの情緒感たっぷりのトラックに乗せた「見果てぬ夢の向こう」を切なく聴かせ、再び玉鋼を鍛錬する響きに乗せた「始末の語り」で幕を閉じる。
また、曲間に多く仕込まれたスキットが全体のストーリー性をまとめ上げ、この作品を優れたコンセプト・アルバムとして仕上げていることも重要なポイントである。
本作のパッケージ商品も徹頭徹尾和風に拘っていて、ブックレットは右閉じで、全て縦書き。CDケースも通常とは反対向きに装填されているので、若干開け辛い。
紙質にも拘った挙句、藁半紙の様な材質を採用したが故に、本当の古文書の様な趣で読み辛くなってしまった。老眼だと難しいだろう。
そのブックレットには「序」という文章が添えられているのだが、その一部を抜粋すると、、、。
「『再鎖国論』とは、物理的に国を閉ざし、国交を絶つことを意味するものではない。
〜中略〜
即ち再鎖国論とはマインドの防衛である。
最早制御の効かない物質世界の鎖国ではなく、巻き戻しの効かない時間の流れへの無意味な不満の表明でも無い。
日本人が、日本人たる自信を持って、この世界と対峙して行くための、精神世界での防衛なのである。」
とある。一番最初にそう書かれている。
ミュージシャンとして、人々に夢を与えるアーティストとしての立ち位置で、Ackee & Saltfishは、このある種の夢物語を作品化しているのだ。
本作は集中した期間に計画的にコンセプチュアルに制作されている。なので各曲の質感や空気感までも統一性があり、本作ならではの世界観を形成することに成功していると思う。作ってあった曲のストックを集めたものではない。本作のために書き下ろした新曲ばかりである。
何故にそんなに事情に詳しいのか。
それは僕が本作のA & R ディレクターだからである。フル・アルバム1枚を通して任務を全うしたのは、今のところ、この作品だけだ。だから思い入れは当然強い。
リリース当時、腰の砕けた音楽メディアの食いつきは悪く、おかしな右翼の人から連絡もらったこともあった。セールスもいい結果だったとは言えないかも知れないし、「やり過ぎちまったか!」という思いが当時無かった訳ではない。ハード過ぎたか。早過ぎたのか。
でもアキソルのキャリアを通じて俯瞰した時、この「再鎖国論」という作品があることが、アキソルの個性を際立たせていると思う。それはリリースから14年経過した今、強く感じている。
まるで予言だ。
時代は更に混迷を深め、世界は戦争が起きていることにも麻痺し始めている。何かが起きそうな不気味な予感漂う今だからこそ、このアルバムのメッセージがやっとまともに多くの人の鼓膜を通過出来る様になったのではないかと思える。サブスクリプションで音楽が聴き放題になった今この時代にこそ、だ!
あえて言おう。
アキソルは不適切だ。それは1996年のデビュー当時から不適切だった。
アキソルはアキソルというジャンルであり、アキソルという音楽なのだ。誰にも媚びず、群れもしない。
過激な言葉を切り取られやすいし、誤解もされやすい。
でも閉塞して窒息死しそうな現代社会、誰かが彼等を呼んでいる。そんな気がしてならない。
ではまず彼等のライブで、とりあえず名古屋から解放しよう。出来ることしか出来ないし、やれることをやるのみなのだから。