菖蒲の花が咲く頃。
曇天の日曜日の午後、昼寝をしていた。暑くも寒くもなく心地良い眠りだった。
耳元で何か囁かれた気がした。
「・・・を手伝ってあげて、、、。」
みたいなことを言われた気がした。それきっかけで眠りは浅い方へと向かっていった。
でも起きれない。起きようと思いはするものの動けない。まだ眠いのだ。
それからどれだけ時間が経過したのだろうか。すごく短かったのか。1時間ぐらい経っていたのか。
階下のキッチンからまな板の音が聞こえる。「ああ、もう友紀子が夕飯の支度を始めたんだ」と思う。
何をすべきだったのか分からないのだが、手伝いをする機会を失ったなと思った。起きれなかったんだからしょうがない。
5月9日木曜日。久代お婆ちゃんが旅立たれた。103歳の大往生と言える。
去年の7月1日に名古屋に移住して以来、およそ10ヶ月。短い間であったが一緒に暮らせて良かった。何より妻の友紀子にとって、まだ元気だった6ヶ月間、そして介護が必要となった4ヶ月間を一緒に過ごさせてあげられた。間に合って良かったと思う。
本来、名古屋への移住は早くてもまだ6年は先のつもりだった。昨年の移住の時点から数えたなら7年は早まったことになる。
その早まった要因は言わずものがな僕の病気だ。
まだ元気なうちに全てにケリをつけるべく、小田原の実家の処分に動いた結果である。そして幸いにも僕は現時点で病気と共存し、以前とほぼ変わらないライフ・スタイルで名古屋で暮らしている。人生の巡り合わせに導かれたのであるならそれもまたいいだろう。
久代お婆ちゃんについて僕が語れることは少ない。常に傍観者であったし、責任の及ばない立場でしか関われていなかったからだ。長年一緒に暮らし、介護の当事者であった義母とは全く立場が異なる。
それでも許されることなら、彼女は可愛らしかったし、面白かったと表現したい。
103歳過ぎてもデイ・サービスに出かけるのにネックレスをしたり、指輪をしたりしていた。車椅子になる半年ぐらい前まではパーマもかけていた。
鉄人的な体力の持ち主であった。
103歳と5ヶ月までは矍鑠として、2階の自室で暮らしていた。家の1階部分から道路に至るには10数段の石段を降りる必要もあるのだが、難なく登り降りしていた。
最後の瞬間まで頭脳明晰であった。
認知は一切無かった。元気にデイ・サービスに通っていた頃はレクレーションで出されるクイズに全問正解したことを話してくれていた。臨終の迫る枕元でも意識のある間は誰が尋ねてきたのかをしっかり認識していた。
最後の日々は短かった。僕ら夫婦が伊豆から戻ったその日から2週間しか無かった。
痛みが伴っていたので、それが可哀想だった。だが投薬によって痛みを消すことは意識が遠のくことも意味する。心臓への負担であったり様々なバランスの中で、家族、訪問医療のチーム、介護器具手配、ケア・マネージャーが一丸となって最善を尽くしてきたと思う。
4月30日未明のサッカーU23アジア・カップのUAE戦の時だった。
キック・オフが深夜2時だったので、起きれたら自室のPCでTVerで試合を見るつもりだったのだが、前半は寝過ごしてしまった。
3時過ぎに目覚めて後半だけでもと思い、1階の僕の部屋に向かうと隣のお婆ちゃんの寝ている部屋から声が聞こえる。昨年末以来、お婆ちゃんはそれまで我々の寝室だった1階の和室に移動し、それまでお婆ちゃんの部屋だった2階の1室が我々夫婦の寝室になっているのだ。
声をかけるとお茶を飲もうとしてコップごとベッドの下に落としてしまったらしい。コップを拾い上げ、お茶を飲んでもらい、飴が舐めたいというので少し躊躇したが差し上げて、念の為、舐め終わるまでお婆ちゃんの横で後半15分ぐらいまで試合を観ていた。
「ムーちゃんが来てくれて嬉しかった」と何度も言われ、それが僕も嬉しかった。それが最後の思い出となった。
亡くなった翌日、郵便局に用を足しに行った帰り、近くの寺の小さな池に菖蒲の花が咲いていた。
調べてみるとイチハツ(一初)という品種らしい。イチ(一)もハツ(初)も最初を意味する言葉だ。
終わりはゼロへとループしてイチから再び始まる。お婆ちゃんが特に熱心な仏教徒であったという訳では無いだろうが、仏教の概念では魂は輪廻する。つまり仏教の世界観には幽霊は存在しないのだ。輪廻しちゃうんだから。
その夜は通夜だったがそんなことを考えていた。金曜日の午前中のことだった。
昼寝の後の読書を終えて階下に降りた僕はゆっこさんに「さっき何だった?」と問おてみた。
「何が?」
「さっき何かしてくれって言いにきたでしょ?」
「行ってないよ。一度も上には上がってないよ」
別に怖い話をしているのではない。それに寝惚けただと思う。
俗に言う「金縛り」とは、意識が覚醒しているのに体が眠っている状態のことだと知っている。あの時は浅い夢を見て、意識は目覚めようとしているのに体はまだ眠っていた。そんなところだろう。
でも、、、、。
その声は生前のお婆ちゃんの声とは違う、涼やかな綺麗な音色だった様に思う。けど、それでもやっぱりちょっとだけ思うのだ。
輪廻のループに戻る前のほんのひととき、少しだけ立ち寄って、何かを託し来たのかだろうか。オレなんてに託しても、あまりやれることなど無いと思うのだが、、、。
あの時、気持ちのいい風が吹き抜けた様な気がした。
そんな気がしただけで本当は違うのかも知れない。
でも、それでもいい。今はそう思うのだ。