「オッペンハイマー」を観てきた。
60歳になったので、109シネマズでの映画が常に1300円で観れる様になった。これまでも毎週水曜日の映画の日なら誰でも1300円だったのだが、これからは曜日を問わず、いつでも1300円で観られる訳だ。
それじゃあ早速「オッペンハイマー」を観に行こうと思った。
日本では例の「キノコ雲頭バービー」画像の件などもあって、好印象で迎えられていない映画だが、第97回アカデミー賞で作品賞を含む7部門を獲得してしまったではないか。
一体何が描かれている映画なのか。観ておきたい。
折しも「ゴジラ -1.0」が同じく第97回アカデミー賞で、日本映画として初の視覚効果賞を受賞した。同じ原爆繋がりで日米がどんな風にどんな映画を作ったのか、そいつを見比べてみるのもいいかと思ったのだ。
と思ってたら「ゴジラ -1.0」がいきなりAmazonプライムビデオで視聴可能になった。せっかく劇場で観ようと思っていたのだが、サブスクで家で観られるならと、先に観てしまったのだが、、、。
う〜ん、、、、。
まあ、「ゴジラ -1.0」については別稿に譲るとして、、、。
満を持して張り切って「オッペンハイマー」を観に劇場に向かったのだが、その日は水曜日であった。
上映時間が3時間もあるのだ。
事前情報を何も入れずにいたので、そんなことも知らなかった。だからその日は朝から珈琲も飲まずに、水分も控えめにして映画に臨んだのだった。劇場では「ちょっとションベン・タ〜イム!」で一時停止はしてもらえないのだから。
さて、この映画「オッペンハイマー」なのだが、我々日本人にとってはタブーとも言えるテーマを扱っている。
原爆についての映画をアメリカが作ったってこと自体、ハレーションを起こすには十分な理由になる。過敏に反応してしまうだろ、それは。
その上、あのむかつくバーベンハイマーの画像で「アメリカ人の良識はどーなってんだっつーのっ!」てなってしまうのはしょうがないだろう。「おちょくってんのか!コラぁ!」てなるよな。そりゃ。
日本で公開されること自体、危ぶまれたのもしょうがない。
しかしあのアホ・バービーの、ど阿呆画像のせいで我々日本人は目眩しをされてしまっていたのだ。
映画「オッペンハイマー」こそ、我々日本人が観るべき映画であった。
まずオッペンハイマーという人が歩んだ人生をある程度知ってないと分かりづらい。かく言う僕も原爆を開発した人ぐらいしか、正直知らんかった。お恥ずかしい。
最初に思ったのは、「音がうるせー。」ってことだった。強迫的なぐらいなレベルの音量で、爆発音や地響きみたいな効果音を鳴らしてくる。ちょっと観客を音でビクついてしまうぐらいの心理状態にしておくのが、もしかしたら演出の意図なのかも知れない。
この音のデカさは劇場でしか味わえないものだ。
映画は、戦後オッペンハイマーがソ連のスパイ容疑をかけられた公聴会のシーンと、若き日の姿から、人類初の核実験「トリニティー実験」の成功に至るまで彼の人生を描いているシーンに分かれる。
話の中核を成す実験成功までの緊迫した内容で、実験成功後、もう見終わったかの様な脱力感を感じるのだが、そこまででまだ2時間。全3時間のうち、最後の1時間はスパイ容疑の公聴会の模様だ。
広島、長崎についての具体的な映像での検証的なシーンはないので、人によってはそれが不満に感じるかも知れない。でもそこにフォーカスし過ぎてしまうと映画そのもが壊れてしまっただろう。
この映画で描かれているのは、戦時下の国家プロジェクトという究極的なプレッシャーの中で、ドイツ、ソ連に絶対に負けることが許されない開発競争に晒されていた科学者たちの葛藤、苦悩、後悔、科学技術としての探究心、それを兵器として使用することに対する疑問、などが大きく取り扱われている。その細やかな心理描写は秀逸である。
またロスアラモス研究所の中でも、ドイツ降伏後、最早原爆開発の意義は失われていると主張した科学者たちも多くいた。日本は既に降伏に近い状態にあるのだから、そこに原爆を使用することに反対する署名なども行われていたのだ。
オッペンハイマーが何も考えずに原爆という大量殺戮兵器を開発して、絵に描いた様なアメリカン・ヒーローになりたかった人物ではない、ということはよく分かった。
だが詳しいことを知らない一般ピープルの反応は違う。大衆とは訳も分からず騒ぎたがる。「トリニティー実験」の成功の後のロスアラモス研究所でのスピーチのシーンでも、いかにもアメリカンな「イェ〜〜〜〜〜〜い!!」みたいな人々はムカつくが、他人事ではないだろう。そういうのって日本人だってきっと同じだ。
オッペンハイマーはその演説の際の大歓声の中で、核の高熱でボロボロになる人々の幻影を見て恐怖する。彼の有名な言葉「私は死だ。」はここで初めて語られる。
第2次世界大戦終結後、彼はトルーマン大統領と面会する。その際、大統領に対して「私の手は血塗られてしまった」と発言し、トルーマンは激怒する。あくまで原爆投下を戦争を終わらせるための必要な行為だったとしたい政治家たちにとっては、オッペンハイマーの発言は弱虫の泣き虫野郎ということになるのだ。
TIME誌に「原爆の父」として表紙を飾り、戦争の英雄として祭り上げられ、政府に対して最も影響力のある科学者となったが、オッペンハイマーは水爆の開発に反対し、軍縮を唱える様になっていく。
戦後アメリカはファシズムに変わる新たな脅威「共産主義」と対峙することになる。「マッカーシズム」と呼ばれるヒステリックな赤狩りの始まりだ。
その時代の渦にオッペンハイマーは巻き込まれていく。
1954年、政敵の策略に嵌められ彼は、ソ連のスパイとの容疑をかけられ、厳重な監視下におかれ、学会から追放されてしまう。
失意のオッペンハイマーであったが、ここでかつてアインシュタインが彼にかけた言葉が回想されるのであった。
映画のラストで、1963年に彼がエネルギーの開発、使用、生産に関する業績に対して与えられる「エンリコ・フェルミ賞」を受賞したシーンが描かれる。アメリカ政府はこの賞の授与により、反共ヒステリック状態でなされた1954年の処分の非を認め、彼の名誉回復を図ったとされている、とのことだ。
僕がこの映画で重要なことだと思ったのは、アメリカの世論が多少なりとも原爆投下に対して内省的な感情を持っている、あるいは持ち始めているのか、ということだ。
以前だったら退役軍人会や軍事産業コングロマリット、全米ライフル協会などの大きな影響力で、この様な論調の内容の映画を作らせなかっただろう。
しかもクリストファー・ノーランの様なビッグ・ネームの監督に莫大な予算をハリウッドが与えて。日本だったら考えられない骨太なテーマの映画に、だ。
そしてそれがアカデミー賞の作品賞を受賞してしまっている。
分からん、、、。
かつて70年代末から80年代にかけて、ハリウッドは一時的にベトナム戦争を反省する様な映画を立て続けに作った。「ディア・ハンター」「地獄の黙示録」「プラトゥーン」「ハンバーガー・ヒル」「フルメタル・ジャケット」などなど。
でもその反面、そういった反戦の雰囲気を「トップ・ガン」の様なアメリカ軍全肯定な映画で打ち消して来た。
今回のオッペンハイマーはどうなのだろうか?
2022年にエネルギー省の長官が、1954年のオッペンハイマーに対する処分は過ちであり、歴史を訂正する必要があると再び発表した。これをアメリカ人がどう捉えているのかはよく分からない。
人によっては戦争の英雄で原爆の父オッペンハイマーの名誉回復として捉えてるかも知れない。
人によっては核兵器の開発者でありながら核軍縮を唱えたオッペンハイマーが再評価されたと捉えているかも知れない。
あるいは今後核開発の中心となっていくだろう核融合発電技術の推進に大義名分を与えたいのか?
いずれにせよ、アメリカ人が今まで以上に日本に対する原爆投下の事実に向き合うきっかけには少しはなるのではないかと思う。
それだけでもちょっとはマシなのかもね。