日々モロ

ゴジラ-1.0 対 シン・ゴジラ

この「ゴジラ -1.0」なのだが、劇場で1300円払って、「オッペンハイマー」と見比べて観たりしなくて良かった。本当にそんなことしていたらガッカリ感が今感じているのより倍増していたことだろう。

何故ハリウッドはこの映画に視覚効果賞など与えたのだろう。そのVFX技術に関して言えば多少は頑張ったとは思う。思うが別に驚くほどのことでもない。

確かに低予算であの映像を作ったことは素晴らしい。でもアカデミー賞って低予算で作ったことを評価する様な賞なのか。

日米対抗「核をテーマにした映画合戦」、なんていうのは僕が勝手に設定した妄想だ。そんな高いハードルに勝手に乗せたのも僕だ。それについては「ゴジラ -1.0」には申し訳ないことをした。

「ごめんね。」とでも言っておこう。とりあえず。君はそんな器ではなかった。

何か犬みたいで可愛い顔してるね。

まず、何であの戦後日本っていう設定を選んだんだろう。リアリティがあると思ったのだろうか?それとも戦後の街並みをCGで再現したかったのだろうか。

ゴジラが突然東京に上陸する。ゴジラというのはそういうもんだから、それはいい。本当は嫌だけど。

だがそれに立ち向かうのが、旧日本軍だった民間人。しかもボランティア。えっ、て感じである。

あんなとんでもないモンが暴れまくっているのに、占領軍、つまり米軍は対ソ連との緊張関係にあるので迂闊に軍事行動は取れないなんていう寝言を言う。GHQも日本政府もストーリーには参加して来ない。

それでしょうがないから接収済みだった旧日本軍の戦車とかを寄せ集めて対抗するのだが、それを許すのもおかしいだろ。どうやって誰がどんな組織が整備して調達したんだよ?弾薬とかあったのかよ。それの使用をGHQは許したのかよ。

それでもってゴジラが弱い。ゴジラ史上最も弱いんじゃないか。一気に深海に引き摺り込まれ、その気圧差でダメージを負わされていたとは言え、爆弾抱えた戦闘機の口の中への特攻で、頭部を吹き飛ばされてあっさり死んでしまう。まあ戦っているのがボランティアだから、それぐらい弱くなきゃダメか、、、。

何だ、それ。ダメじゃねえよ!ゴジラ舐めんな!

あのオッペンハイマーも反対した核開発競争の果ての、無責任な廃棄物の海洋投棄が産んだ呪われたモンスター「ゴジラ」という設定にはチラッとしか触れない。

一瞬ゴジラがチリチリっと焦げる様な映像が挟まれるが、それでゴジラがあの口から核の炎を吐く能力を得たっていう説明になるか?

そもそも核の影響を受ける前のゴジラみたいな奴が冒頭に出て来るんだけど、それが何なのか全く説明されない。大戸島の伝説の恐竜生き残り説在りきで流しちまってる。

最大に気に食わないところは、安易なハッピーエンドだ。

特攻崩れであることに負い目を感じて苦悩し、更に最愛の人を殺され、その傷付いた心を奮い立たせ、ゴジラへの特攻を決心した主人公はそのまま死なせてやれよ。悲劇のヒロインも死んだままにしとけよ。残された人たちのその悲しみの涙の向こうにあるカタルシスがいいんじゃん。違うか?

整備工が気を利かせて脱出装置を付けてました。ヒロイン、実は病院で生きてました。そういう「3丁目の夕日」的な優等生な感覚がいい映画なのか?

これが「生きて、抗え。」なのか。

ごめん、無理です。神木隆之介と浜辺美波の「らんまんコンビ」には申し訳ないけど。2人とも好きな俳優なんで。

これだったら同じくだらないなら、レジェンダリー制作のカイジュー・バース・シリーズ最新作「ゴジラ X コング」の方が数百倍いいだろ。観てはいないが前作のことを思えば、荒唐無稽さが振り切れちゃってるはずだ。

この禍々しさ。恐怖の大王ここに降臨です。

ガックシにも程があったので、口直しに僕の中で永遠の名作「シン・ゴジラ」を観ることにした。

アマプラで「ゴジラ -1.0」配信と同じタイミングで、モノクロ版の「シン・ゴジラ・オルソ」も視聴可能になっていたので、そっちを観てみたのだった。

オルソ・バージョンは夜のシーンなどで雰囲気が良かったかな。怖さが増していたかも知れない。でもその程度かな。カラーの方がいいと思う。

総監督の庵野秀明自身が語っていたが、庵野作品はそもそもドメスティックな作りを最初からしている。

つまり日本人に向けて作られているのだ。しかもマニアックな日本人に向けて。狂人的にスーパー・オタクの庵野氏は設定に妥協はない。欧米人にも分かりやすいものなどハナから作る気はないのだ。

更に「シン・ゴジラ」には思いっ切りエヴァンゲリオン・テイストがぶち込まれている。例のエヴァ明朝体のフォントで様々なものの名称がテロップでその度毎に説明される。エヴァのことを知らなくてもそれは成立するのだが、外国人には分からないだろう。

また音楽も然りだ。最近ではバラエティ番組で定番的に使用される様になった、あのティンパニ(なのかな?)の連打で始まる、戦いの始まりをイメージさせるあの曲。「EM20」という曲なのだが、劇中で頻繁に使われている。もちろんあれがエヴァの曲だと知らなくても成立するのだが、庵野作品らしさを際立たせている要素だ。

外国人が分かる様に合わせるつもりはないのだ。「理解したかったらお前が日本語勉強しろ!」と庵野秀明は言わないかも知れないが、僕にはそう思える

「ゴジラ-1.0」というか、山崎貴と庵野秀明の決定的な違いは、オリジナル作品や特撮文化への深い愛情とリスペクト、拘りのレベルが全く違うということだ。

子供の頃に見た特撮映画における矛盾点。それに出来るだけ説得力を持った説明を加えて再構築しようとしているのが庵野組だ。

そう説明しようとしているのだが、実際の科学的見地によれば無理な場合も多々ある。

でもその無理があるということ自体にも自覚的かつ確信犯的で、意味が分からないけど難しい言葉を並べるのはカッコいいだろ、それが特撮だろ、みたいにワザとやってる感がある。それは「シン・ウルトラマン」でも「シン仮面ライダー」でもそうだった。

「シン・ゴジラ」では、いろんな設定に可能な限り科学的な解釈が加えられている。

まずゴジラとは深海生物が水爆実験の廃棄物投棄によって生じた放射性物質を捕食して進化した完全生物、という設定になっている。常に進化を続けており、体内の生体原子炉から活動エネルギーを得ている。

その深海生物が何であるかは定かではないが、俗にファンの間で「蒲田くん」と呼ばれている第2形態にはエラの痕跡がった。顔も深海魚「ラブカ」に似ているところから、ゴジラは生物の進化の過程を同一個体で体験していて、第1形態は魚類に近いものだったのかも知れない。

恐竜の生き残りでは無さそうなのだ。

細胞膜の分子構造に元素変換能力があり、熱核エネルギー変換生体器官を内蔵した混合栄養生物なのだという。何のことやら分からないが、要は空気さえあれば生きていけるということらしい。

更に無性生殖により個体増殖して、ネズミ算式に群体化する可能性や、個体進化により小型化や有翼化して大陸間を超えて拡散する可能性などがあるというのだ。

ただ生じた熱を冷却するのは血液であり、エネルギーを放出し過ぎると冷却のために活動停止にならざるを得ない。そこが唯一の弱点と思われるポイントで、血液凝固剤の経口投与により活動凍結が見込まれるという推論にひと筋の光明を見出すのであった。

「シン・ゴジラ」においてゴジラと戦うの日本政府であり、実務を担当する官僚たちだ。当然だ。それ以外の誰が戦うと言うのだ。「巨大不明生物特設災害対策本部」(巨災対)がそれだ。

ただ政策決定における手順のまどろっこしさが、この非常事態においても露呈され、意思決定がたらい回しされる様子を皮肉るシーンは、映画冒頭に何度も繰り返し描かれている。危機管理政策における問題点をついているのだ。

でも実際にそうした事態に直面したらそうなるのではないかというリアリティがある。

また自衛隊オタクでもある庵野氏は、自衛隊戦闘シーンおける演出も秀逸である。セリフなど本物の自衛官も納得出来ることだろう。砲弾の発射から着弾までをカウントするシーンの「着弾まであと10秒。5、4、4、2、1、今」という文言などが正にそれである。

そして映像が美しい。

米軍のB-2爆撃機による地中貫通爆弾MOP IIによる爆撃を受け、初めて負傷したゴジラはついに核の炎を吐くのだが、それに至るまでにゴジラが見せるプロセスの表現が素晴らしい。

最初大量の煙を吐き出し、それが高温化すると炎に変わる。やがてゴジラの目が遮光シールドの様なものに覆われ。メタリックな黒に変わると、炎は光線に変わり、同時に尾からも同様のレーザー・ビームの様なものを放ち、B-2爆撃機も投下されたMOP IIも全て撃墜してしまう。

更なる米軍機の接近に対しては、今度は背鰭からも放射状にビームを放ち、一瞬で全てを撃墜してしまうのであった。

その圧倒的な破壊力の前に人類はなす術なく立ち尽くすしかない。壮大な交響曲をバックに、紅蓮の炎の中、夜の東京を破壊し続けるゴジラのスロー映像は非常に美しい。

そして最大のポイントは、ゴジラは熱核処理するしかないと言う決定を国連の常任理事国が採決してしまい、再び日本は核爆弾が投下される危機に晒されると言う場面だろう。タイム・リミットが迫る中、巨災対の立案した血液凝固剤の経口投与によるゴジラ凍結作戦「ヤシオリ作戦」は機能するのか。

物語は最終局面へと向かっていくのであった。

といった感じで一方的に「シン・ゴジラ」ばっかり褒めてしまったが、制作のクレジットを見るとVFXに「白組」というプロダクションの名前が見られる。ここは山崎貴監督が所属する会社であり、当然「ゴジラ−1.0」は全面的に白組がVFXを担当している。

「シン・ゴジラ」も白組の力無くしては作れなかったのかも知れない。そう言う意味では白組は日本のVFX技術の最高峰なのである。

ハリウッド並みのVFXを駆使した映画を日本で作りたかった山崎貴。その世界戦略は分かり易さだった。

一方、魂を削る映像作家庵野秀明は、DCやマーベルの様な感覚で、日本の特撮を作りたかった。

いずれにしても言えるのは「シン・ゴジラ」の登場により、ゴジラ映画は以前の平成ゴジラ・シリーズの様な、敵対怪獣と戦うという様な単純な構造のお話には戻れなくなってしまったのではないだろうかと言うことだ。

そう考えると山崎貴氏は健闘した方なのかな、とも言えるのか。

以上はあくまで全て独断に満ちた僕個人の意見である。異論はあって当然だし、僕は誰とも討論などするつもりはない。悪しから

次のゴジラは誰が作るのだろう。中々大変な仕事ではあると思う。

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