旅モロ電車で1人で行く!小田原、例の用事の旅

Episode 1 : 電車でGo ! 病院にもGo !

往路は試しに各駅停車の普通列車で行こうと腹を決めた5月20日の朝、ゆっこさんの携帯に不明な着信が。出てみると、毎度お馴染み小田原の間中病院からだった。

最初いきなり過ぎて何のこっちゃか分からなかったけど、小田原の母がまた誤嚥っぽい感じで入院させるかどうするかの判断の電話を、緊急連絡先の1番目の姉を飛ばして、間違えていきなり2番目の奥さんの携帯にかけてきた様だ。

その後、姉から電話があり、前日の日曜日から母は若干発熱傾向で、嚥下もあまり上手くいってなかったらしく、明日月曜日にデイサービスに行かせていいものか悩んだ姉が問い合わせていて、その回答の電話だった、と言うことが分かり納得。

結局、その朝はデイサービス「めだかの学校」に無事行ったのだそうだ。

「ああそう。良かった、良かった。どっちにしろ明日行くよ」なんて言ってたその日の夕方、その後どうなったか姉に連絡してみたら、結局母ちゃんは「めだかの学校」からそのまま直接間中病院に搬送されて入院したのだそうだ。

おっとっと。

と言うことで、のんびり各駅停車などで行ってられない。翌21日火曜日に新幹線に乗り込んで小田原に向かったのであった。

それでも「こだま」で行きました。
久しぶりにこの駅弁も食べました。

14時前には姉ちゃん宅に到着。16時過ぎに仕事の終わる姉からの連絡を待って、面会時間終了10分前ぐらいに間中病院に着いた。

母ちゃんは眠っていた様で、反応はあまり良くなかったが、姉の言うことはよく聞いていた。僕が握手するとその手を振り払っていた。なんだ、それ!

担当医に話を聞くことが出来た。

とにかく嚥下の能力が衰え始めている様だ。先月に続いて2度目だ。その前は2年間ぐらいは騙し騙しやってきたのだが、いよいよそういう段階に来たということなのか。嚥下が上手くいかない=誤嚥を起こす=誤嚥性肺炎を引き起こす、という流れが頻発する可能性があるということになる。今回の入院で流動食の様なものでも食べられる様になって退院できるのか、その辺もまだ不明瞭で、様子を見るしかないという。先が見えない状況である。

そんな状態になって、果たして家で介護しきれるのだろうか?施設も視野に入れた方がいいのか?

帰りの車の中でそんなことを話したのだが、もうすでに14年も母を介護している姉なので、そろそろ解放されたいかと思ったのだが、それでも一緒に暮らしていた方が寂しくない、と言う。

複雑な心境だ。

その日は姉と2人で夕食を食べ、今回は「君が獣になる前に」という、元キスマイの北山が主演で、小田原駅前でメチャクチャロケしてるテレ東系のドラマを、第4話を除く、1話から最新7話まで見せられた。

見ているうちにそれなりに集中して見たのだが、第4話は録画し損なったらしい。第5話を見て思ったのだが、第4話は前半の最も重要な回だったみたいで、その回だけ姉の説明で補うという、中途半端な、何それーみたいな変な感じになってしまった。

今週土曜日に第8話が放送される、見ざるを得ないだろう。

タイム・リープものですな。

翌る日。

今日5月22日は土地・借地権非訟事件の第3回目の審問の日だ。今回は夕方4時半から。日中はこれと言ってやることもない。

中町の家の近くの郵便局に1年間有効な郵便物の転送依頼届を出しに行ったついでに、中町の家に行ってみた。

かつて車を停めていた1階部分。
内階段。
居間。
正面のトイレに続く廊下。
寝室。
玄関へと続く階段。

綺麗さっぱり掃除・片付けをしてあるのだが、何となくまだ住んでいた頃の痕跡も感じられる。見ての通りボロ家だが、My Sweet Homeであったことは間違いない。だが今は出来るだけ早く法的な決着を付けなければ。法的な決着後はこうして勝手に内部に入ることも出来なくなる訳だ。少しだけ感慨深い。

昼食は姉宅から歩いて1分ぐらいのところにあるインネパ屋「MAMA PAPA」という店に行ってみた。しつこいと思われるだろうが、またインネパだ。でも歩いて1分のところにあるインネパに行かずして、何のインネパ研究家だ。いや、言い過ぎました。研究家ではありません。

ともかく。この「MAMA PAPA」ついての詳細は「メシ」コーナーにて。

午後は一応持って行く書類に1度目を通し、昼寝をして脳をスッキリさせて、16時頃に姉宅を出て横浜地方裁判所小田原支所へと向かった。

今回も20分もしないで終わった。

次回は6月24日月曜日の16時からと決まったのだが、これまでと少し違うのが、裁判官が一度直接話し合いの場を持つのはどうかと勧めてきたことだ。

ここまで審問も粛々と進んで、僕としては異存はない。やるかどうかは先方次第ではあるが、実現すればコトは大きく進展する可能性は高い。

心して待つしかない。

これが横浜地方裁判所小田原支所の建物だ。

今回の旅に出発する少し前に、幼馴染みのOが重度の肝硬変で秦野赤十字病院に入院しているという情報を得た。

彼はまさに幼稚園からの幼馴染みである。

僕らが子供の頃は親が放任主義なのは当たり前の世の中で、今の様に友達と遊ぶのにさえ親が同伴なんて考えられなかった。特に父親というものが学校行事に参加するなどいうことは皆無だったと言っても過言ではないぐらいだ。

子供が放置されていた時代の話だ。

小学校の頃。3~4年生の時はクラスが別だったから、1~2年生の頃か。それとも5~6年生の頃か。夏休みは、思い立ったらすぐOの家に遊びに行っていたと思う。

Oの家はタクシー会社の社宅の3階建の建物の1室だった。

日中はご両親は不在のことが多く、子供だけの世界だった。すぐ向かいの寺でカブトムシを捕ったり、遊泳禁止の浜で爆竹で遊んだりしていた。

空気も読まずに遊びに行くと、Oのところの家族(Oとその姉ちゃん、兄ちゃん、お父さん、お母さん)が全員揃って、今まさに出掛けるなんて場面に出会したりもした。そしてその場面で「しょうがないな」みたいな感じで、一緒に国府津のプールに連れて行ってもらった覚えがある。自分の実際の家族とはそんなことしたことないのに。

20代半ばまでは頻繁に会って遊んでいた。でも僕がジャマイカに行ったりして、本気でレゲエをやるなんて言い出した頃に、自分は家庭を守れる男になりたい、みたいなことを言って、以来、疎遠にはなった。

ところが50歳の頃、Amazon小田原倉庫で再会した。彼もそこで働いていたのだ。広い職場なので毎日顔を会わすということでもないし、あの職場の中でそんなに長話をする気分にもなれず、時間だけが過ぎて行った。それでも会えばニコニコしていた。

だがその数年後に股関節の難病に罹り、働くことはおろか、歩くこともままならなくなり、いつの間にかAmazonでも見かけなくなった。その後、離婚したいう話は聞いた。家族とも離れて実家にいるとも聞いた。

長い月日の中ではいろいろあったと思う。いろいろ無ければこんなことにはなっていないだろう。

元々酒に対する依存は強かった。それを半分ギャグの様にして笑っていたかも知れない。アル中の気があるんじゃないか。薄々思うコトはあった。いや、薄々ではない。かなりヤバいと思っていたが、結局何の助けも出来なかった。



僕の中で複雑な思いが交錯し続けていた。

裁判も終わった5月23日の木曜日、意を決して秦野赤十字病院まで行ってみることにした。

会うのは久し振りである。正月のタイミングにちょっと意味不明気味な文面のLINEは来ていた。「酒を呑み過ぎんなよ」といつも返していた。

秦野赤十字病院は小田急線の秦野駅から徒歩で20分ほど。地図アプリで事前に調べておいた。

歩きながら会う時のことを考えて緊張していた。

突然行ってもいいのだろうか。優しい奴だから怒ったりはしないと思うけど、今の自分を人に見られるのは嫌なんじゃないか。こんなの偽善じゃないか?オレはただ自分の気持ちが許されたいだけなんじゃないのか?

それでもいいじゃないか。行ってみるだけだ。行ってみてその結果はどうであろうと受け入れる。それ以外に出来ることなんてないんだ。

いい汗かいた頃に秦野赤十字病院に着いた。

面会受付で用紙に記入して提出すると「え〜と、中学生以上の家族しか面会出来ないんですぉ〜」と言われてしまった。

な、な、な、な、な、何ですとぉぉぉぉ〜っ!!!

問答無用で入れて貰えなかった。ガッカリはしたが心のどこかでホッとしている自分も居たかも知れない。

面会受付の玄関を出て、すぐのところにあったベンチに腰掛け、LINEした。そこに座っている自分の写真も添付した。

「 入院してるって小耳に挟んだんで、今たまたま用事があって小田原に居たから、お見舞いと思って来たんだけど、家族以外は不可と言う事で、入れてもらえなかったよ。トホホ。」
「 見舞いくる事自体、正解かどうかも分からなかったけど、悩んだ結果、来てみたんだけどね。」
「 何て言えばいいのかよく分からないけど、ポジティブな気持ちで居てくれる事を願っています。」
「少しでも元気になる事を祈ってます。」

すると、ちょっとして返信が来た。

「久しぶり、今おふくろは介護施設二三日まえに入って俺も探してるとこです、まあがんばるしかないんで、ラインありがとう、」

何でおふくろのこととか言ってるのか、ちょっと分からないことも言っているのだが、ありがとう、と言って貰えて嬉しかった。

もう歳も喰った。互いに。今後人生のベクトルも交わる可能性は低い。物理的な距離も遠く離れた。誤解を恐れずに告白するなら、僕の信条は「さよならだけが人生だ」である。

僕は不人情な人間かも知れない。

この先、自分は何があってもそのことを受け入れるし、今より少しでも良く在ろうとすることしか出来ない。後悔はない。

それでもあの遠い日の夏休みのことは憶えている。

そんなことを思いながら秦野赤十字病院を後にしたのだった。

近過ぎると上手く撮れない。なので遠くから撮影した。
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