もう一度、ゴジラ -1.0 を観た。
依然大絶賛が続いている「ゴジラ -1.0」。
ネット上でも手を換え品を換え、絶賛プロモーションが展開中だ。
いや別にそれでいいんだけどね。
アメリカではNetflixで配信され、視聴率1位を獲得したという。
そうかぁ、多くのアメリカ人がアレを観たのかぁ。
以前は勝手に自分の中で「日米核映画対決オッペンハイマー VS ゴジラ -1.0」みたいな構図を作って、それ基準に比較してしまったのだが、今回は「アメリカ人がアレを観たのか」と言うことも念頭に置いて観てみることにした。
冒頭。
零戦の機体の不調を訴えて、大戸島の整備基地に不時着を装った主人公敷島だったのだが、実は特攻を恐れてのことだった。
その晩、都合のいいタイミングで被曝前のゴジラに大戸島は襲われる。
整備長の橘から「ここには整備工しかいない。零戦の機銃であいつを撃ってくれ」と頼まれた敷島なのだが、何故か撃たない。
何で撃たないんだよぉ。
無論これは重要な伏線となるのだが、恐怖のあまり撃てないという設定に、まず僕は「う〜ん」となってしまう。
大戸島の整備基地は壊滅し、橘と敷島だけが生き残る。
引き上げ船の中。
何百人と乗っているその中から橘は敷島を見つけ、死んでいった大戸島の整備兵たちの遺品の写真を突き付ける。
よく見つかったな。
まぁ、同じ船に乗ってることを知ってたんだろうな。なら分かるけど。
焼け野原となった東京に戻った敷島。
東京大空襲がもたらした惨憺たる姿だ。
10万人もの非戦闘員をひと晩のうちに大量虐殺したという史実、アメリカ人に届いただろうか。
その後も廃墟の様な街で極貧と戦いながら生きる市井の人々の姿が映画では描かれる。
アメリカ人からしたら罪悪感を感じれば普通はあまり見たくなない描写だろう。
でも「ゴジラ」というコンテンツがアメリカ人にこれを見させることを可能にしている。
そう思うと感慨深い。
その後、赤の他人の戦争孤児を育てる典子と出会い、擬似家族の様な関係の暮らしを始めた敷島は、高給待遇の海中機雷を除去する仕事に就き、そこで仲間となる船長の秋津、元技官の野田、徴兵されなかった若者水島と出会う。
何やかやとあって、ゴジラは水爆実験で被曝し超バケモノに進化し、その木造船「新生丸」と相対する訳だが、やはりこのゴジラはあまり強くないんじゃないかと判断さざるを得ない。
だって木造船に追いつけないんだから。ゴジラだろ。
あの [MEG The Monster] の巨大ザメ、メガロドンでも多分追いつくぞ。
そりゃ追いついちゃったらお話は面白くないだろうが。話も続かないし。
そんななのに戦艦高雄の真下から熱線を吐いて破壊する。
足場のない水中からだよ。普通に考えたら自分が海の中に潜ってっちゃうんじゃないかと思うけど。
この映画、主戦場が海なのだが、海って設定、後々にも無理が出てきますよ。
そしてゴジラは東京に上陸し、復興し始めた東京を再び破壊する。
米軍はソ連との緊張関係にあることを理由に日本を見殺しにする。
ジ・アルフィーの高見沢俊彦のグルメ番組のゲストに監督の山崎貴氏が出ている回で見たのだが「旧日本軍の残存兵器で戦うという発想は初期段階から構想にあった」と言っていた。
まぁ、その設定を通すためには米軍に出てきてもらっちゃいけないんだろうが、こんな全世界を揺るがす大事件を傍観って、そんなのアリかなぁ。
確かゴジラが東京に上陸したのは終戦から2年後ぐらいだったと思うけど、その間ずっと放置してあった戦車、よく動いたな。よく撃てたな。あれは誰が操縦してたんだろう、こんな緊急事態で。
ただここまで観て、非常に分かりやすい。アベンジャーズぐらい分かりやすい。
「まあまあ、難しいことは抜きにして、続きを見ましょうよ」的な、面白さと分かりやすさがある。
これがワールド・スタンダードか。世界で評価されると言うのはこういうことか。
確かに米制作会社レジェンダリー制作のモンスター・ヴァースの前作「ゴジラ VS コング」では、コングは地球の中心部分から香港まで一気にジャンプしちゃったからな。
そういうのと同じレベルで文句言っちゃいけないのかな。怪獣映画だし。
浅いけどな。
この映画のメイン・コピー「生きて抗え」なんだが、前回のレビューでは若干批判的に引用したが、再度鑑賞して少し考えが変わった。
あの怪優吉岡秀隆演じる技術者野田が対ゴジラ殲滅作戦「わだつみ(海神)作戦」を立案するのだが、その彼が、最後の作戦会議の場で「先の大戦では我々日本人はあまりにも命を大切にしてこなかった。脱出装置も無い戦闘機で特攻したり、戦死者の4割は餓死だったりと、、、。この戦いでは1人の死者も出さないことを誇りにしたい」みたいな主旨のことを熱く述べる。
ちょっと話が前後するが、暮らしの中で、特攻から逃げ、大戸島でも恐怖に負けた自分を責め続け苦しむ敷島。そんな彼を典子は「生きて帰ってきた人はどんなことがっても生きなきゃダメ」と叱咤する。
「生きて抗え」のテーマに沿ったエンディングに向けての大きな伏線だ。
アメリカ人もこれを観たのか、と思うと非常に意義深く思えた。
ゴジラの体にフロンガスのボンベを巻き付け、それを噴射し、浮力を奪って3000m級の深さの相模湾トラフの深海に引き摺り込み、その急激な圧力増加でダメージを与える。更に巨大バルーンを膨らませ、一気に海面まで引き上げ、その急激な減圧でダメージを与える。
これが「わだつみ作戦」の要旨なのだが、それを補完するために戦闘機での陽動が必要と感じた敷島は、奇跡的に解体を免れていた終戦間際に開発されていた局地戦闘用爆撃機「震電」を発見し、これの整備を橘を探し出し依頼する。
実は最後の手段としてゴジラに特攻することを秘かに決意していた敷島に、橘は秘策を授ける。
ついに作戦決行の時。
一旦ゴジラの上陸を許してしまうのだが、敷島の操縦する震電の陽動で再び海上に誘き出すことに成功する。
この上陸の際の「ザ・ニッポンの風景」みたいな中での、ギャップによるゴジラの存在感。
この感じってアニメの分野で、ジブリであったり、それこそエヴァであったり、新海誠作品であったり、既に先行して表現されていて、ある程度イメージが浸透していたものだと思う。
それを山崎貴は実写の分野で表現したかの様に見えた。
パクリとは言わないが、アメリカ人にはウケるでしょ。
そしていよいよ戦いの舞台は海になるのだが、構図的にいろいろと無理が生じてくる。
この海は何なんだ?アレか?ゴジラの腰ぐらいの深さなのか?
そう思えるぐらいにゴジラの上半身から腰ぐらいまでが海から立ち上がるのだが、それって立ち泳ぎしてんの?
だとしたら海面下でゴジラの足は物凄くバタバタしてることになるぞ。水球でシュート打つ時みたいだ。
それともアレか、尻尾をグルグル回してんのか?スクリューみたく。
それ演出ですよ。
分かってますよ。
ダメージが今ひとつと判断してバルーンによるゴジラの海面への引き上げを試みるが難航する。
そこに民間の漁船やら何やらが大挙して来て、みんなで引っ張る。
一見感動的だが、これなら無人新幹線爆弾などを使った「シン・ゴジラ」の方に僕は感動する。
山手線を使った無人在来線爆弾が意思を持っているかの様にゴジラの体に這い上がり巻きついて爆発する様の方が熱くなった。
「-1.0」における民間企業「東洋バルーン」からは、「シン・ゴジラ」における建設用重機である高層ポンプ車で戦う姿を連想してしまった。
何かちょっとっつ、何だかなぁ〜、って思ってしまうのだよ。
最後、熱線を吐こうと口を大きく開いたゴジラに震電で特攻を試みる敷島なのだが、この時のゴジラの姿勢はどう見ても立っている。
水深3000m級の海溝に引き摺り込んだじゃなかったんかい!
はぁ、もういいか。ごめん。僕が意地悪でした。
この後、敷島は無事脱出用パラシュートで帰還し、典子の無事も確認され、深海では不気味にG細胞が脈動する不穏なシーンで映画は終わる訳だが、もうその辺はいいです。
生きててもらっていいです。もう逆に生きててくれてありがとう。
じゃないと「先の大戦では我々日本人はあまりにも命を大切にしてこなかった」の部分が無駄になっちゃうからね。
あれ、アメリカ人に分かってもらいたいからね。
でも本当の事言うと、僕の感想の大部分は前回のものとあまり変わってないんだけどね。
この映画の特徴は、まるでハリウッド制作かと思えるぐらい、ノリがアメリカ映画みたいに軽くて分かり易い点かと思う。
そしてまるでアメリカ公開を見越していたかの様な作りになっている様に感じられる。
もしそれを本当に狙っていたのだとしたら凄いと思う。
原爆や核のことは訴えてなくても、第二次世界大戦で、日本はどれだけのことをされたのかということを、かなり直接的かつ効果的に多くのアメリカ国民に見てもらうことに成功しているのだ。
しかも別にアメリカに悪感情を持って描いている訳ではない。恨みがましいことは一切言ってない。
だからこそアメリカでも受け入れらたのだろう。アカデミー賞だかんね。
「分かりやすさ」。
これが世界を制するキーワードなのか。
実際、アベンジャーズに「あんなのあり得ない」とか文句があるなら、その人はそれを観ないだろう。
歴代ゴジラ映画の中では面白い作品のひとつであると認める。
「シン・ゴジラ」、2002年の釈由美子主演の「ゴジラ対メカ・ゴジラ」の次に面白いと思う。