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ボマーマフィアと東京大空襲/マルコム・グラッドウェル

アメリカのジャーナリスト/作家のマルコム・グラッドウェルの著による、何故東京は焼き尽くされるに至ったかを、アメリカ空軍大学の全面協力の下、膨大な資料を元に検証したノンフィクション。

その背景には、1930年代、当時の最新テクノロジーであった「飛行機」に魅せられ、その可能性を信じた「ボマーマフィア」と呼ばれた若者たちの、思想、理想、そしてその挫折があったのだ。

元々ポッドキャストの番組として制作された作品で、それがオーディオ・ブックとなり、書籍版となり、2022年に邦訳されて光文社より刊行されたものだ。

グラッドウェル氏自体は軍事史が専門という訳では全然なく、これまではビジネスや社会問題について多くの著作がある人みたいだ。

年齢は61歳。僕の一個上だ。イギリスの生まれで、家族でカナダに移住し、アメリカで「NEW YORKER」の記者として活動し、著述活動を始めたのだという。

ちなみにお母さんはジャマイカ系の人とのことだ。

第2次世界大戦が勃発した1939年当時、航空機の性能はまだまだ低く、軍隊と言えば陸軍、と言うのが常識であったらしい。

アメリカ軍においても空軍が陸軍から分離・独立したは第2次世界大戦終結後の1947年のことで、それまでは「陸軍航空隊」として陸軍の所属部隊のひとつだった様だ。

3700万人もの人が戦死したという第一次世界大戦(1914年〜1918年)は、陸軍主体の地上戦が主な戦い方だった。これは効率の悪い消耗戦でもある。

この陸軍の戦い方を変えて、効率を上げ、無駄な戦死者を減らし、戦争を早く終結させる方法はないか?と夢想した集団がいた。

1930年代にアラバマ州モントゴメリーのマックスウェル飛行場に設立された航空隊戦術学校の講師と学生たちである。その集団は「ボマーマフィア」と呼ばれる様になる。

彼等が理想とした戦術は「高高度精密爆撃」。

「巨大爆撃機によって、敵の対空砲火の届かない高高度から、白昼に、敵のチョーク・ポイント(重要インフラ)にピン・ポイント爆撃をして、無力化し、戦意を喪失させ、早期に戦争を終結させる」という戦術だ。

だがその当時、それは単なる理想に過ぎなかった。高高度精密爆撃を実現できる飛行機はまだなく、それに必要な爆撃照準器も存在していなかったからだ。

にもかかわらず若いボマーマフィアたちは、想像力を駆使して、様々な戦いの場面を想定し、この理想を実現するためのシミュレーションを重ねていたのであった。

そして、戦時中の技術革新は急速に進み、やがてオランダ人天才技師カール・ノルデンが開発した「ノルデン式爆撃照準器」が登場し、ついに「空の要塞」と呼ばれたB17爆撃機が開発され、ボマーフィアの理想は実現に近づいていった。

だが実戦における現実は厳しかった。

1943年、夏。ヨーロッパ戦線。在英アメリカ基地。ここに2人の陸軍航空隊の指揮官がいた。

ヘイウッド・ハンセルとカーティス・ルメイ。

ハンセルは理論家集団ボマーマフィアを体現する様な人物であったが、それを実際に運用したのは冷徹無比な実務家ルメイであった。

後に「残忍な」と形容詞の付くようになったカーティス・ルメイだが、残忍というより、物事に動じない実行者で、目的を遂行するためには容赦のない人物であった様だ。

やがてハンセルを最高司令官とした作戦が決行される。

ノルデン式爆撃照準器を搭載したB17で、ドイツのシュバインフルトにあるベアリング工場を爆撃するのだ。

このチョーク・ポイントを攻略するために出撃するのだが、いい成果が出せない。

ひとつの要因は、パイロットが敵の防空網の対空砲火を恐れて、直前に逃げてしまい、照準器の計算通りに飛行しなかったからだ。

この問題を解決するためにルメイはパイロットに退避行動を禁じた。軍法会議にかけるぐらいの厳罰に処す、とした。

実際に対空砲火を被弾しても撃墜させるには337発命中することが必要だということを計算で割り出し、だから少々弾を浴びても逃げるな、と厳命したのだ。

だが結局このシュバインフルト爆撃作戦は失敗した。

理由は作戦当日が霧で悪天候だったからだ。

シュバインフルト爆撃を成功させるための陽動作戦として、ルメイの別動部隊は航空機工場のあるレーゲンズブルグに向かった。

濃霧のため離陸には困難が伴ったがルメイの部隊は計画通りの時間に出撃出来た。現実主義者のルメイはこういう事態を予測して、パイロットがどんなに疲れていても霧の中でも離陸訓練を怠らなかったからだ。

だが、10分後に飛ぶはずだったシュバインフルトを爆撃する本隊は、霧による視界不良のため、数時間も離陸出来なかったのだ。

結果、ルメイの部隊は予想以上の集中砲火を浴びた上に陽動は失敗。給油に戻ったドイツ機に本隊までもが想定外の攻撃を受けてしまう始末となった。

多くの部下を死なせることになったこの作戦の失敗をルメイを終生忘れずに、自宅の玄関入ってすぐにシュバインフルトの航空写真を飾っていたのだという。

そしてこの失敗の記憶が後にルメイに東京大空襲を実行に移させる布石となった。

戦局は移り、ヨーロッパ戦線から太平洋へと変わる。

アメリカにとって日本との戦争とは、これまで経験のないほど、物理的にも文化にも、共に距離の遠い国との初めての戦争であった様だ。

日本が真珠湾攻撃を行った1941年12月の時点での米軍の主力戦闘機はB17。B17の航続距離は3200キロ。つまり片道1600キロ。この時点で1600キロ圏内で東京に到達できる米軍基地はひとつも無かった。

このため、アメリカは、当時日本の占領下にあった、日本までの距離が2400キロのサイパン、テニアン、グアムのマリアナ諸島を手にいれる必要があったのだ。

その思惑通り、1944年の夏までにアメリカ海兵隊の手によってマリアナ諸島は次々に陥落。

そして開発された、航続飛行距離が4800キロを超える当時の最大の爆撃機「空の超要塞」と呼ばれたB29爆撃機。

これによって太平洋戦争を通じて、アメリカは、初めて日本を射程圏内に収めたのである。



そして満を持してB29だけで構成された精鋭部隊、第21爆撃集団がヘイウッド・ハンセルを指揮官としてグアムに派遣された。

だが状況は一筋縄ではいかなかった様だ。

高温多湿でスコールも降り、マラリア蚊が大量発生するこれらの島々は、米軍にとっても非常に過酷な環境だったのだ。

更に開発したばかりにB29はまだまだ故障も頻発しており、路面も悪い急拵えの短い滑走路から離陸するためには強い向かい風が必要だった。

そんな中、ハンセルは最初の日本爆撃作戦「サンアントニオ1号作戦」を1944年秋に決行することとなる。

だが作戦当日、滑走路に向かい風は吹かなかった。出撃準備を終えた119機はそのまま待機するうちに猛烈な暴風雨に襲われた。つまり台風に見舞われたのだ。もし仮に無風状態の時に出撃していたら、全機が墜落していたことだろう。

これも想定外の事態だった。

結局、サンアントニオ1号作戦が実施出来たのは、計画よりも1週間後のことだった。

そんなこんなで東京近郊の中島飛行機の工場(スバルの前身)を爆撃するために実行されたサンアントニオ1号作戦だったが、苦労して日本の本土上空に到達した第21爆撃集団は爆撃を試みるが、全く命中しない。

ノルデン標準器が計算した地点に爆弾が着弾しないのだ。

原因は当時まだあまり知られていなかったジェット気流だった。

B29の航行速度にジェット気流の時速160キロの風が加わっているのだから計算通りに当たる訳は無かったのだ。

ハンセルの日本本土への高高度精密爆撃は困難を極めていた。

同時期にインドのコルカタの第20爆撃集団の指揮に当たっていたカーティス・ルメイは、全く違うタイプの難題に直面していた。

コルカタは、インドの中では日本へは直線距離で最も近い都市ではあったが、その途中には世界最高峰のヒマラヤ山脈が聳え立っていたのだ。

-30℃の上空で乱気流に揉まれた後に、8000mを超えるエベレストが現れる。

この大戦を通じてヒマラヤ越えに失敗して墜落した航空機は700機を超えるのだという。

シュバインフルトに続き、このコルカタからの出撃の失敗経験により、ルメイの心中からは、高高度精密爆撃という戦術は消えていったことだろう。

この2人が対日本攻略に苦心しているのとは全く別の場面、1941年5月、とあるシカゴでの会議において、悪魔の爆弾開発につながる最初の報告がなされた。

そこから開発された、引火爆発しやすいゲル状のタールが飛び散り、猛烈な火災を引き起こす爆弾。

NA(ナフテン酸)、PA(パルミチン酸)ALM(アルミニウム)=「ナパーム」。

ナパーム弾だ。

木と漆喰と紙で出来た日本の家屋を燃やすために開発された爆弾である。

実証実験の結果、1発で6分で制御不能になる火災を68%の確率で日本家屋に発生させることが可能であると証明された爆弾だ。

この爆弾は、ホイト・ホッテル、ルイス・フィーザー、E・B・ハッシュバーグという3人の科学者と、デュポンという企業を中心に開発されたことを、忘れずにここに記しておこう。

そして運命の巡り合わせは最悪の決断を可能にする。

1944年1月6日。

グアムのアンダーセン空軍基地の司令官だったヘイウッド・ハンセルは解任され、後任にカーティス・ルメイが任命された。

それまでのハンセルの方針は全て却下され、ルメイが指揮をとることになった。

そしてそこで、ルメイが躊躇せずにやったこととは、、、。

天候やジェット気流に左右され、雲によっても目標を視認しにくい9000mを超える上空からの高高度精密爆撃はやめる。

ジェット気流の下を通るだけでなく、雲の下、高度1500mから2700mという超低高度で、敵に防空網に引っかかりやすい日中ではなく、夜に、日本上空に侵入。

そして東京に300機のB29で無差別爆撃をする。

使用する兵器はナパーム弾。

これが1945年3月10日未明に実行された、10万人を超える非戦闘員を大量虐殺した東京大空襲である。

以降アメリカ軍は終戦を迎える8月15日までの間に日本中の都市を焼き尽くした。

ボマーマフィアたちが掲げてきた理念は葬り去られ、「どんな方法でも戦争を早期終結させることのみが最善の選択だ」という言い訳めいた論理にすり替えられていった。

真珠湾攻撃を受けて以来、3年にも渡って日本攻略に手こずっていた軍首脳やアメリカ政府の中には、この「早期終結こそが善」という考えが蔓延していったことだろう。

そして、そこには原爆投下も含められていたことだろう。

だが、カーティス・ルメイは言ったという。

「もはや日本に原爆は必要ない」と。

時は流れて現代。

どんな国家にとっても空軍は主力中の主力だ。

GPSを使ったレーダーにより爆撃精度は比較にならないほど上がり、高高度精密爆撃など当たり前中の当たり前。

現代の戦争は最早ドローンの時代である。

ボマーマフィアの理想は正しかった。

そこには大いなる技術革新と、そのための時間の経過が必要ではあったのだが、彼等の考えた様な時代となったのだ。

それでも無差別爆撃は止まらない。戦闘も早期には終結しない。憎しみの連鎖が続く限り、止むことはないだろう。

そして軍事産業は兵器を作り続ける。

また今年も8月15日がやって来る。

毎年、多くの場面で日本が受けた戦争被害の悲惨さが強調されて、それを語り継ぐ重要性が説かれる。

もちろんそれは大切だ。

だが、いくら悲惨さを訴えたところで戦争は無くならない。

無くならないどころか、時の政権は戦争のおこぼれに預かりたくて、法律を変え続けているのだから。

正に馬の耳に念仏だ。政治家は自分たちのせいだとは思ってないのだ。

それよりも、事態を悪化させ、そういった悲劇を招いた、当時の軍部、政府の無能さがもっと検証されるべきではないのか。

誰の判断が悪かったのか、ハッキリさせるべきだろう。

見過ごされがちな、元日本兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)についても、もっと検証すべきではないのか。

それは戦後に家庭内に起こった戦争の続きなのだから。

辛かった記憶を反芻するよりも、そうしたことの方が、もっと前向きな行為に僕には思える。


本書を読むと、アメリカもまた常に万能な訳ではなく、多くの犠牲を払っていたのだと分かる。

でもそれに輪を掛けて、当時の日本軍はボロボロだった訳だ。

高度1500mからの爆撃はB29にとっても大きなリスクだったにも関わらず、日本の本土にはそれを迎撃出来る防空網らしきものは無かったのだから。

いい加減にしてほしいもんだ。

死ぬのはいつも一般市民ばかりである。

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