Episode 2 : ファイナルの其の弍。
9月5日木曜日。今日は母ちゃんが約3ヶ月振りに退院する日だ。
今、彼女は何を想うのだろうか。
もう直接経口で物を食べることは出来ない。痰で気管が詰まらない様に、1日に何度かは鼻、口から吸引しなければならない。栄養分だけでなく、水分も薬も胃に直結されたチューブから摂取することになる。寝ている姿勢の角度の急変で血圧の急激な低下なども起きる可能性があるらしいので、もうほとんど寝たきりといっても過言ではないのだ。
喋れない訳ではないのだが、あまり喋ることは無い。喋り辛いというのもあるんだろうが、喋りたくも無いのだろう。
9時半に間中病院に行って退院の手続きをして、10時過ぎには介護タクシーで姉の家に向かった。病院を出る前に、今日の午前の分の吸引と水分補給、投薬、栄養補給は終えているとのことなので、姉が戻るまで僕らのやるべきことは無い。
仮にあったとしても何も出来ない。
そっとベッドに寝かせ、早めに戻る予定の姉の帰宅を待つ。それしか出来なかった。
この日の夜はケイシロウ家族と食事に行くことになっていた。
実は9月8日(クッパの日)がゆっこさんの誕生日なのだ。かねてから彼女は「誕生日の前後1週間は全部誕生日だ」と主張しているので、カズナにはそっと8日が誕生日だということを告げておいた。
場所は早川港のすぐ側、早川の河口の横にあるイタ飯屋。「ポルト・イル・キャンティ」だ。
僕は8月の頭に来た時にみんなには会っているが、ゆっこさんは6月以来だろう。プチお誕生日会を兼ねた宴だ。
子供たちからは相変わらず元気をもらえる。いつも良くしてもらえて、本当に有り難い。
散々呑んで食べて、この日は早めの21時ぐらいにお開きにした。
明日は平日だから子供たちは学校や保育園に行かなければならない。マルちゃんはまた姉ちゃんの家に泊まりたいと言ってたが、もう夏休みでは無いのだ。
名残惜しいので、早川駅までみんなで歩いた。2歳6ヶ月のフミのダッシュが早くて驚いた。もう喋るわ、走るわで、何でも出来るじゃないか!
早川駅のホームに立つと、駅の外のロータリーから子供たちがいつまでも大声で「バイバーイ!」と叫んでくる。ゆっこさんは電車が来るまでそれに返事を返していた。
今回の小田原滞在の後半は盛り沢山の予定が入っている。
明日の金曜日は、僕は、現在の僕を作り上げてくれた会社「アルファエンタープライズ」の解散会にマサヒロと一緒に参加する。
ゆっこさんは別行動で、辻堂に史朗と彼の家族、紘子とミリちゃんとの食事に出掛ける。
因みに史朗にも9月8日がゆっこさんの誕生日であることは、こっそり伝えてある。
土曜日は、今回はあまりゆっくり家で夕食を取って無いので、姉ちゃんと豚しゃぶでゆっこさんのハピバだ。
そして日曜日には帰る。
となるとSKPに顔を出す時間が無い。
しょうがないんで全く腹は減って無かったが、明日のランチ用にテイク・アウトしようということでSKPに寄ることにしたのだった。
SKPには以前からメニューに「ロティチャナイ」と表記された小麦粉生地の円形のパンがある。それを客は皆「ロンティ」と呼んでオーダーするのだが、それはインダス文明圏のマサラの国ではどこでも食べられている「ロティ」のことのはずだと、この5ヶ月ぐらいずっと思っていた。
それを確かめる時が来たのだ。
僕はマレーシア・カレーのチキンにロティチャナイを付けて。ゆっこさんは僕のお勧めで「ナシルマ」という海老とホタテのカレーにライス、更に鶏唐揚げと目玉焼きの乗ったワン・プレートの料理を注文した。
だがお持ち帰りで頼んだので、ロンティの形は巨大な餃子みたいに折れ曲がってしまい、冷めてフニャフニャになってしまった。しかもカレーはチキンでは無く、野菜になっていた。
翌日、家で食べる時にはロンティは2分ぐらいオーブントースターで温め直したところ、表面はサクサクに仕上がって、それでいてもっちりしていて、非常に良い感じだった。ベジ・カレーはジャガイモのせいで非常にヴォリューミー。食べ応えがあり過ぎて、更に翌日用にと残してしまった次第だ。
SKPについては、スクーピーと呑んだ時にいろいろと聞いた話もあるので、「メシ」のコーナーで補足の記事を書くことにしよう。
9月6日金曜日。
この日の朝は母ちゃんが胃ろうになって退院して、初めてデイ・サービスに行く日だ。
今まではヘルパーさんが1人来て、食事の介助と着替えをしてもらい、その後、お迎えに来たデイ・サービスのスタッフと2人掛で上半身と足を抱き抱えで2階から下ろし、車椅子に乗せて移動していた。
姉の毎朝の出勤時間が7時50分頃。デイ・サービスのお迎えが8時半から9時までの間ぐらい、そうでもしないと回らないのだ。
でもこの日は総勢5人掛で迎えに来てくれた。やってみないと分からないことが多く、念の為にそれだけの人数で来てくれたのだ。胃ろうに関する機材的なものが加わり、持って行くものも以前より増えている。
それでも結局忘れ物があり、2回もわざわざそれを取りに戻って来てくれた。
ご苦労様でございました。
そして夜は(株)アルファエンタープライズの、法人としての登録を抹消し終わった、お疲れ様の同窓会的な集まりだ。
アルファエンタープライズとは言わずものがな、僕が31歳から41歳までの間働いたレコード会社だ。
海外のレゲエ音源の国内ライセンス販売でシーンの礎を築き、特にジャマイカの名門レーベル「King Jammy’s」音源を広く日本に紹介したことで知られている。
またオリジナル制作の作品やライセンス作品で、日本人レゲエ・ブームに先鞭を付け、Ackee & Saltfish、Jap Jam レーベル、初期カエル・スタジオ、KAANA、初期Life Style Records、Jr.Dee & 振動貳百、Yoyo-C、Dubsensimania、Mighty Massa、leccaデビュー作、Megaryuデビュー作などの多くの価値ある作品をリリース。
そして現在の東京アンダーグラウンド・シーンを席巻する異形のHIp Hop集団Think Tankと彼らのレーベルBlack Smoker Recordsが世に出る際に大きく関わった。
僕としてはそれらの仕事に誇りを持っているが、ビジネスとして上手く行ったかと言うと、会社には苦労をかけた。
当時、よく恵比寿の居酒屋「かおる」で、レゲエ・マガジンの初代編集長の故加藤学さんに「茂呂!オメエの自己満で仕事すんじゃねえよ。青ちゃん(総務部長)がどんだけの思いして金引っ張って来てんと思ってんだ、バカっ!売れるモンを作れっ!」と散々怒られた。
でも僕は「ダサい音楽なんて世に出したくないんですよっ!」と食い下がった思い出がある。
僕を鍛え、今の僕の全てを作り上げてくれた会社。それがアルファエンタープライズなのである。
アルファは團という広告代理店が親会社で、その團は経営の悪化で2008年頃に倒産したが、アルファは新規の活動をほぼ停止し、営業規模を縮小したが倒産はさせなかった。僕が会社を離脱したのが2006年だから、そこから18年間も存続し続けて、この6月に会社を閉めたのであった。
この間、社長の小林さん、取締役総務部長の青島さん、経理担当の小河内さん(旧姓猪岡さん)が。ずっと会社の面倒を見続けてくれたのだった。
ありがとうございました。
で、その解散式というか、お疲れさん会をやるので集まろうということになったのだ。
場所は東京幡ヶ谷のタイ料理店「スパイス・マーケット」。ここはかつてアルファでも働き、後にメジャー大手の東芝EMIのディレクターとなって一緒に仕事をした慶松氏の経営するお店だ。小林さんの計らいでここを選んだらしい。
このメンバーでしか話せない、僕の中で長年封印していた話なども出来た。多くの思い出話も出来た。もっとやれたんじゃないかという、今更ながらの後悔の念なども脳裏をよぎるが、あの時、あの時代、あの空気感の中でしか出来なかったことと、その結果が今なんだと思う。
それが運命だったのだ。拒絶することは出来ない。タラレバは無い。その先を生きた結果、僕は今名古屋に居るのだから。
本当ならこの後カラオケに行きたいところだったが、僕とマサヒロの帰りの電車のこともあるので22時にはお開きとなった。
青島さんは「次はみんなで1泊で行こう!」と言っていた。
そうですね。是非お願いします。これが今生のお別れじゃないですよね。定期的に集まれたらいい。次は関係の深いアーティストも呼べればもっといい。
そんな思いがした。
ところ変わって同じ頃、辻堂では、ゆっこさんが史朗家族に誕生日を祝ってもらっていた様だ。
「すごく楽しかった」と言っていた。良かった、良かった、である。