旅モロ沖縄、名護へ。やんばるレゲエ祭の旅

Episode 2 : カルチャラルに巡る沖縄。Day 2

10月18日、金曜日。那覇2日目。

今日もギブくんは仕事を調整して、休みにしてくれて、終日、我々の旅に同行してくれるという。

本当に有難い話である。

この恩を僕に返すことが出来るのだろうか?

僕がまだ小田原に住んでいて、ギブくん一家が小田原に来てくれた、なんていうシチュエーションならそれも可能かと思うが、もしギブくん一家が名古屋に来ても、僕よりギブくんの方が名古屋に詳しいし、名古屋にはギブくんをケアしたいと思っている知り合いは沢山いる。

それでも、まあ、気は心というか、誠実に対応する以外の方法は多分ないのだが、、、。

昨夜は0時頃に就寝したのだが、6時頃には目が覚めてしまった。睡眠の質はあまり良くない。

だが旅先で気分は高揚しているので、元気ではある。

まずは朝食だ。那覇ウエスト・インでの宿泊は朝食付きである。

とりあえずはソバ行っとくっしょ!やっぱそこは。

朝食は、朝ソバ定食、ゆし豆腐定食、ぼろぼろじゅーしー、味噌汁定食、タコライス、ゆし豆腐そば定食、の6種類から選べるのだが、とりあえずはソバ行っとくしょ!やっぱそこは。

優しい出汁の味にゆっこさんは若干感動していたが、僕的には「まだまだこんなもんじゃねーぞ、ウチナーのスバは」などと思いつつ、食べた。

無論美味しかった。

今日は10時半にギブくんと待ち合わせだ。

事前にギブくんに伝えてあった(と言うか自分ら単独でもやろうと思っていたことなのだが)予定は、、、。

まず僕は、今回の旅では、どこかのタイミングで戦没者慰霊塔に手を合わせたかった。そしてそのチャンスは今日しかない。

調べてみると「和合の塔」という碑がホテルから歩いて行けそうな距離であることは分かっていた。

その後は、首里城を観光をし、ゆっこさんの希望で、夕食前の16時ぐらいからは、国際通りにも近い那覇セントラル・ホテルにある「天然温泉りっかりっかの湯」のサウナに行きたい。

そしてギブくんファミリーと合流し、夕食をご一緒して、その後は民謡ハウスをゆっこさんに体験させてあげたい。

というものだった。

これらの希望スケジュールが、ギブくんの手腕で全てグレード・アップしていった。

まず慰霊塔に行くなら南部に行こうと言う。

南部の糸満の方に行けば、ひめゆりの塔や、沖縄平和祈念公園がある。

もちろん異存は無かった。ならば平和祈念公園だろう。自分らの力では到底行けなかっただろう場所だ。

車を出してもらう訳だし、運転もしてもらう訳だから「ちょっと遠いし、ギブくん、悪くない?」と聞くと、

「今回、茂呂さんが慰霊塔に手を合わせたい、って聞いて、自分、嬉しかったんですよ。だから問題ないです」と言う。

じゃあ、お言葉に甘えて、、、。真夏の日差しの中のドライヴも悪くない。

南部方面へのドライヴ旅が始まった。

走り始めて間も無く、「朝ごはんは食べましたか?」とギブくんが聞く。

食べたと答えると「ちょっと行ったところに地元で人気のお弁当屋さんがあるんですよ。おやつ代わりに天ぷらでも買いましょうねえ」ということになった。

ギブくんは覚えていたのだ。僕が前回2017年に来た時も天ぷらが食べたいと言っていたことを。

沖縄の天ぷらは衣が厚く、どっちかっていうとフリッターみたいな感じで、それにウスター・ソースをかけて食べるのが美味しい。でもあまり観光客が食べたがるものではないかも知れない。

僕はそれを、多分2002年のことだと思うのだが、アキソルが沖縄限定でリリースしたシングル曲「そろそろかりゆし」のジャケット撮影、CM撮影、それと「Peacefull Rock Festival」という100%県民向けのフェスに出演のために沖縄に行った際に同行して知った。

CMの「漁港編」撮影の際のケータリングで港の食堂で食べた、アーサー汁と、グルクンの天ぷら、もずくの天ぷらの定食。あれが結構忘れられず、前回2017年に来た時も天ぷらが食べたいと言っていたのだ。

漁港編のCDジャケット
黄色の看板は正統の証。上間てんぷら店。
弁当。美味そう。
おばちゃん若干こちらを見てくれた。

見た目は全部土色だが、それは美味しさの証拠だ。映えなんて関係ねーんだ、映えなんてよー。

魚、イカの天ぷらを3つづつ買って車の中で食べた。朝食後だったけどパクッといけた。ウスターソースをかけ忘れたのが心残りだった。

車中、いろんな話をした。

名古屋時代、ギブくんは酔っ払うと面白い、愛されキャラだった。だが当時のことをギブくんは「あの頃は何も考えてなくて呑んでました」と回顧する。

「自分はやっぱりこっちに戻ってから、アキさんヒロさんから教えてもらったことをよく考えて、自分のルーツとか沖縄の歴史について調べたり、勉強しました。」

那覇の中でも首里の出身であるギブくんの家系は、かなり本格的に由緒正しいのだそうだ。

首里に住まう「儀」という字の付く姓の家系は、王族から名前をもらった一族で、しかも「武」が付くということは士族、つまり侍の家系であるということだ。

これ以降、リスペクトを込めて、きちんと「儀武くん」と表記することにしよう。

更に島に戻ってからの儀武くんは、基本、和装で外出することが多いのだという。もちろん仕事の時は違うのだろうが。

本当なら琉球の民族衣装「琉装」をしたいそうなのだが、高価でもあるし、それはフォーマルな場用として、そうでもない時は和服にパナマ帽といった結構インパクトのある格好で外出しているらしい。

通りで昨日のKAZAMAという店の儀武くんの知り合いのスタッフも、たまたま来店した知り合いも、儀武くんの格好を見て「今日は珍しいねえ」みたいなことを連発していた訳だ。

僕からしたら名古屋に居た頃と変わらない儀武くんであるのだが、、、。

シンボリックなタワー。
その下にある鐘。
広大な敷地。緑の向こうは海。
どこに手を合わせるべきか分からず、ここで合掌した。

今年の夏は僕も多少太平洋戦争について学び直した。

と言っても歴史雑誌「歴史道」と「歴史と人物」から出たムック本を2冊ばかりと、このブログでもレビューした「ボマー・マフィアと東京大空襲」という本を読んだだけなのだが、、、。

太平洋戦争の開戦を決めたのは、法令に基づいた正式な機関ではない、たった9人の軍閣僚によって構成された「大本営政府連絡会議」という、言わば政府の懇親会の様なものであったらしい。

所謂「大本営」というやつだ。

あれは憲法上で明記された政府の機関でも何でもないものだったのだ。

天皇の意思決定の場と思われている「御前会議」は、この「大本営政府連絡会議」の決定を追認するだけの機関に過ぎなかった訳である。

もっとも、こうした軍部の増長の背景には、例えば「226事件」に代表される様な軍の暴走をも、不景気や世情を世直しする正義の味方と捉えて囃し立てた世論も関係しているのだという。

時代の狂気とはそうして形成/醸成されていくものなのだろう。

一般市民を巻き込んだ唯一の地上戦となった沖縄戦では、実に県民の4人に1人、12万人が犠牲になったという。

あの戦争を通じて日本は何を学んで、何をもう既に忘れてしまったのだろう。

強大な軍事産業コングロマリットが支配するこの世界から戦争が消えることは無い。

「資源が無い」「軍備が無い」と脅され続けてきた、この79年間。

世界人口の9人に1人が飢餓状態にあるというこの惑星の現状の中で、どれだけ幸福を求め続ければ満足なのか。

結局、この祖国は属国でしかないのだ。

でもせめて地位協定ぐらいは改訂しないと、、、。

強い日差しの中を歩いて汗をかいた我々は、公園内にあったおばあの売店で、ブルーシール・アイスクリームを食べながら、しばらくの間、実際そんな会話を交わしていたのだった。

向こうに見える可愛い建物はお便所です。

首里城を訪れるために再び那覇に向かう。

途中、今度は大きな赤い看板が見えてきた。

「あそこも有名な人気の弁当屋さんですよ。天ぷらでもつまみますか?」

お弁当に加えて食料品なども売っていた。
いつもの通り、もう齧っちゃってます。ポーク玉子。

ポーク玉子のおにぎりと魚とサツマイモの天ぷらを購入。ゆっこさんと儀武くんは結構大きめのじゅーしーのおにぎりを購入。お店の横のイート・イン・スペースで座って食べた。

お店によって衣が違う。こちらの宮城スーパーさんの天ぷらの衣は分厚く、ちょっとアメリカン・ドッグを、いやサーターアンダギーを思わせる甘さもあった。

忘れずにかけたウスターソースはちょっとかけ過ぎ気味だったのだが、その衣がキッチリそれを吸い取ってくれる。そのシミシミが美味いのだ。

丁度いいぐらいの満足感で首里城へ向かう。こんな感じの食事がレストランのご馳走より上等である。

2019年10月31日。正殿からの出火で、首里城は主要7棟を焼失した。

けたたましい消防車のサイレンの音はもちろん、窓を開ければ燃え落ちた焦げ臭い匂いは儀武くんの家まで届いていたという。

「ぽっかり胸に穴が空いた様でした。」

儀武くんは当時のことをそう語っていた。

歴史上、首里城は何度も焼失している。太平洋戦争までに4回焼失し、1991年に再建され、今回で5度目である。

城門や正殿は焼け落ちても、石垣や、建物の基礎は生き残っている。そっちの方が長い歴史を生き抜いてきた価値ある遺構と言えるだろう。

更にあまり観光客は目を向けない、神様が祀られた廟なども儀武くんが解説してくれる。

儀武くんの首里城愛はハンパ無かった。

守礼門を潜って一発目にある大きな門、歓会門。
こういう所が神様のおわす廟。
今、島を訪れていることを神様に報告。
水が湧き出続けているという井戸。
こういう場所の方が神聖である。
広福門。ここから先は修復中の本殿のエリア。400円の有料だ。
本殿の最上部。屋根の部分。かなりきれいに修復が進んでいた。
首里城は最も高台に建設されているので那覇市内が見渡せる。

歩きながらいろんなことを儀武くんが解説してくれる。ガイドさんを雇っているかの様だ。

だが僕はもうへばり始めていた。アチーのだ。長ズボンなんて履いてくるべきではなかったんだ。

ゆっこさんは熱心に儀武くんの解説を聞きながら首里城を満喫している様子。

いやそれはこの僕だって同様なのだが、正直しんどい。

最も高い地点から降り始め、弁天宮の池の方に向かう。下りの石段だ。

池が見えて来た。すると変な鳥がいる。

変な鳥を見て若干テンションが上がる。

変な鳥がいる。あ、何だ、コイツら。完全に変な鳥だ。

キモっ!何なんだ、その顔面っ!!何故逃げない!
池に浮かんでいるのが弁天宮。地味だ。
お前ら何だ、そのマスク!赤影かっ!!

儀武くんの娘で5歳になるアイちゃんは首里城が大好きなんだそうだ。もう何回も来ているらしい。この後、会うのが楽しみだ。

一旦首里城を後にして、すぐ近くにある世界遺産であり国宝の国指定の史跡「玉陵(たまうどぅん)」に行ってみた。これも強い儀武くんのお薦めからだ。

ここは琉球王朝の中の第二尚氏王統の陵墓であり、1501年に第二尚氏第三代の尚真王が、父尚円王の遺骨を改葬するために作られたもので、その後の歴代の王の遺骨も収められている神聖な場所だ。

ただもう若干疲労で脳がテーゲーな感じで、思考能力が雑になり始めていた僕には、もう「たまうどぅん」というワードを見ただけで「うどん」以外のものは思い浮かばなくなっていた。

「ヘイっ!たまうどぅん一丁!」「あいよ〜!」みたいな?

何てこと思っていたら入り口で2度頭をぶつけた。「アガっ!」って感じである。

さて、これから風呂だ。こん感じでゆっくり風呂も悪くない。

風呂を出たら、そのまま夕食、そして民謡ライヴ、というタイミングになりそうなので、一旦ホテルに戻って、全て着替えて面倒無しのスタイルになった。昼の暑かったイメージから思いっ切り半ズボンで自由を満喫だ。

風呂も儀武くんの提案で空港の側の、海中道路で結ばれた「瀬長島」という小さな離島のホテルの中に「龍神の湯」という施設があるという提案があった。

ゆっこさんは単なるハードコアなサウナ・マニアなだけなので、特に露天や風景といった情緒などを求めない。オッサンが行く様な風呂でも汗さえ出ればいいのだが、せっかくなので、その「瀬長島」の風呂に行くことにした。

この時、我々はまだ「瀬長島」がかなり神聖な島であることにはピンときていなかったのだが、、、、。

「龍神の湯」の詳細については、別項の「メシとか宿とか風呂とか」の方に譲るとして、夕陽を浴びながらの温泉浴は気持ち良かった。

「自分も久々にのんびり出来ました。」と儀武くんも言う。

沖縄の人は湯船にあまり浸かる習慣がない、と多分ケンミンショーで観た覚えがあるのだが、19歳ぐらいから16年近く名古屋に居た儀武くんは普通のうちなんちゅうより風呂好きであった。

せっかく仕事を休ませてまで付き合ってもらったのだ。そう言ってもらえればありがたい。

那覇市内に戻る道中、スーパー・ムーンが沖縄の空に浮かんでいた。

でもデカ過ぎでしょ!これは!漫画じゃねえんだから!

若干の帰宅渋滞を抜けて那覇市内の前島という場所にある夕食の店に到着。沖縄料理の居酒屋を儀武くんが予約してくれていたのだ。

下ネタですか?

沖縄では湿度対策もあり、1年のうちの大半をエアコンを付けっ放しにしているらしい。

僕たちが訪れたこの10月半ばなど、本土だってまだ日中は夏日を記録しているぐらいだ。こちらでは30℃越えの真夏日なので、然もありなん、だ。

でも店内では寒過ぎることが多い様な気がする。特に夜にならばそれも尚更だ。

昼間長ズボンで「アチー、アチー」行っていた僕は、前述の通り、風呂上がりの半ズボンだ。

「寒い。」

温度に対する対応が全くチグハグになってしまっている。


建物全体がこちらのお店の様で、かなり広い。3階に通された僕らは、軽く始めながら儀武くんの奥様、サチコさん、娘のアイちゃんを待った。

こちらのお店のホール担当もネパール人の、しかも女の子が多く働いていた。コンビニのレジだけじゃないんだ。

そうこうしているうちに儀武くんのご家族到着だ。

あ、ちょっと写真は現場が違うのですが、、、。サーセン

この居酒屋での写真がないもんで、すいません。

サチコさんは埼玉の所沢近くの出身とのことで、僕も同じ関東の人間であり、しかもかつて僕は、短い最初のサラリーマン時代に、半年間、所沢の小手指にあった会社の寮に住んでいたこともある。

小田原の後輩(マサヒロ、あ、彼女もサッちゃんだ!)の奥さんにも埼玉の富士見市出身の人がいるよ、なんて話をしつつ、場を和ます。

サチコさんは謙虚かつ明るいとっても素敵な方だった。

2017年にこちらに来た時に、儀武くんが「自分、今、月イチぐらいで彼女に会いに埼玉に行ってるんですよ、」と言っていたことを思い出す。

いい人をお嫁さんに貰ったね〜。

アイちゃんは、明るくて面白い激烈可愛いお嬢ちゃんだ。

この日はゲットしたばかりの、点減する光を追いかけてボタンを押すとメロディの鳴る、ユニコーンがモチーフのおもちゃに夢中であった。

こういうやつです。
フーチャンプルー。
ミーバイのカマの煮付け。
やっと出ました!グルクンの唐揚げよ、これが!

あっという間に時間が過ぎ、21時からは、これまた儀武くんが予約を入れておいてくれた「説法・漫談・民謡ライヴ まさかやぁ〜」に移動しなければならない。

サチコさんの運転で5人で車に乗り込む。後の座席に我々夫婦とアイちゃんで座った。

「そーです。ワタシがユニコーンです。」「いやワタシの方がユニコーンなんです。」などと、2人で笑わせていたら、メッチャウケた。僕のロン毛を縛った後頭部を「ここがユニコーンの尻尾です。だからここがお尻なんです。」とか対5歳児用キラー・ワード「お尻」で完全につかみはオッケーだ。

仲良くなれて良かった。

日曜日に儀武くん家族もやんばるレゲエ祭に来るという。また、もう1回会えるね、アイちゃん。楽しみだね。

サッちゃん、アイちゃんとはここでお別れして、ちょっと「ん?」という感じの名前の店「説法・漫談・民謡ライヴ まさかやぁ〜」に定刻21時より少し遅れて入店した。

入店するといきなりこういう方が登りきった階段の最上部にいらした。

「まさかやぁ〜」の安里賢次さん。

「おお、儀武くん、ちょっとこの植木を階段の下まで運んでくれない?なんだ儀武くん。今日はいつもと違う格好をしてるねえ。お友達は何さん?ノロさん?モロさん?マミムメモのモぉか。モロさん。すいませんね〜。奥さんは何さん、ユキコさん。ユッコちゃんかぁ、いらっしゃい!」

とこんな感じで話しかけてこられたのが、安里賢次さん。かの「沖縄のジミ・ヘンドリックス」とも呼ばれた三線の名手、登川誠仁さんの唯一の弟子なのだという。

僕がかつて行ったことのある民謡ハウスは愛想のいいおばあの店で、いつの間にかそのトークに乗せられて、エイサーを踊らされる、といった感じの店だった。

ここがダメな訳ではないが、ちょっとハードコアではないかい?

でも後から聞いたのだが儀武くん曰く「ケン坊さんはちゃんと民謡を知ってる人だから、観光用の店よりいいと思いました。アキさんヒロさんも行ったことがあります。」とのこと。

確かに。

この日は客の入りは悪かったが、ライヴに来たのは僕らを除いて全員沖縄の人だった。

同じテーブルで御一緒した僕よりも年配の姉弟さんは、お姉さんが公設市場で、田芋(ターモ)とカット・フルーツを販売されていて、弟さんは山原で「仲宗根青果」という果物屋さんを経営されているのだという。

僕が今日昼間に食べたブルーシール・アイスクリームが「田芋(ターモ)とチーズケーキ」というやつだったし、明日から我々は山原方面に向かう。

ま、偶然っちゃ偶然だろうけど、何となく不思議な感じがした。

ケン坊さんのトークも実際面白く、琉球の歴史・文化、ウチナーグチに詳しく、島に伝わる民謡を全てマスターしているのだという。経歴が元ヤクザだったりして、両の小指が不在であった。

かの登川誠仁さんも裏の世界も表の世界もどちらも精通されていたという伝説を聞く。そうしたことも関連しているのだろうか。

龍神の湯のある瀬長島は、瀬長グスクを始めとする拝所や井泉が多数存在する信仰の対象で「神の島」と呼ばれていたところらしい。島に渡っている時も「ここにホテルを建てる時には内地から50人以上もお坊さんを呼んで祈り清めたんです。」と儀武くんも言っていた。

ケン坊さん曰く「元々日本、というか本土のあの島に住んでいたのは縄文人とアイヌ人。ウチナンチュウは元々縄文人、そこに地続きだった頃の大陸から渡って来たのが弥生人と呼ばれる人たち。それでアイヌは北へ、琉球人は海に逃げたの。それで沖縄で最初に琉球人が上陸したところがあの瀬長島なの。」

「この島のことは世界中が狙っているのさぁ。なぜならここは世界の中心なワケ。読谷が更にその中心。だからあそこは神聖な場所なの。」

ヘェ〜、なんて聞いていると確かに話は面白い。でもこの店内も寒い。

え〜っと、寒いんで、ライヴは今日はやらないのかなあ、なんて思っていると「じゃあそろそろ歌いましょうかねえ」とライヴ・ブースに入っていかれた。

ライヴ・セットは、ケン坊さんが三線ではなく1本弦の多い四線(指は少ないのに?)、奥様が伝統的な太鼓類と金物、娘さんがエレクトリック・パーカッション。ファミリーの民謡バンドだ。

よく見ると低めの天井には青く塗られた紙の卵パックがびっしり張り詰めてあった。吸音はバッチリだ。

BOSEの吊のフル・レンジが2発設置されていて、四線と太鼓類と金物は生音、ヴォーカル、コーラス、電子パッドは回線を通しており、ロー・パッドの低音は結構強力だ。

ハコ全体が楽器の様な、一体感のあるサウンドだった。

実は音響的なことがよく考えてある店内。
娘さん、美人だ

以前に僕が行った民謡ハウスは、女性歌手の三線弾き語り的な感じであったが、こちらは男性リード・ヴォーカルに女性の2声のコーラスという編成で、沖縄民謡の王道感に溢れ、豪華で非常に良かった。

結局最終的には全員でエイサーを踊って盛り上がってしまった。

だが、動画の中でケン坊さんが語っているのだが「瀬底島」というワードが、この旅の中で後々関連してくるとは、この時はまだ知る由もなかったのであった、、、。

https://www.youtube.com/channel/UCucCwhM7MxGOxHXMXBBC8_w
https://www.facebook.com/masakayaokinawa
https://www.instagram.com/masakaya1118

ライヴも終わったところで、もう寒い。寒い寒い寒い。

儀武くんはケン坊さんの娘さんに「その格好珍しいねえ。写真撮らせて」などと言われていたが、そんなに珍しいんかい!

僕は逃げる様に店から離脱。せめて長ズボンで来れば良かったなどと思う。

時刻は23時近く。

明日は10時半のバスで中部へ向かい、美ら海水族館に行って、その後に名護の貸別荘に先にチェック・インして、ハヤシくんたち横浜勢を待ち受けるという日程だ。

今日まで2日間、儀武くんには本当にお世話になってしまった。

ありがとうございます。

明後日の日曜日には家族3人でやんばるレゲエ祭に遊びに来るというからまた会える。

今夜も代行運転を呼んで帰るという儀武くんと別れて、タクシーでホテルに戻る我々2人なのであった。

Please follow and like us:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です