書楼弔堂 霜夜/京極夏彦
また京極夏彦モノなのだが「書楼弔堂」シリーズが第4巻の「霜夜」を以て完結した。
2013年の11月に第1巻の「破暁」、2016年11月に第2巻「炎昼」、2023年1月に第3巻「待宵」、そして2024年11月に今作と、京極作品で11年で完結なら早い方だ。
そもそもこのシリーズのサブタイトルは、それぞれ「破暁=夜明け」、「炎昼=日中」、「待宵=夕方」、「霜夜=夜」を意味する言葉で、4巻で完結することは早い段階で作者が公言していたことなのであった。
シリーズは明治25年から40年にかけての20年間の物語である。
あらゆる本が手に入るという、楼閣の様な異形の書舗「弔堂」。元僧侶である店主龍典は「ここは本の墓場であり、自分はその墓守である」と言い、「人生にはその人のためだけのたった1冊の本があればいい。それを巡り合わせることがその本にとっての供養である。」と言う。
その生涯の一冊を求め訪れる明治の実在の偉人、文人、学者たちの「探書」を通じて、維新以降の「本」の在り方、進化、それがもたらした意義的なものを紐解いていく、といった趣のお話だ。
各巻毎に視点となる主人公がいる。
「破暁」では、旧幕時代に生を受けたのだが子供時代に徳川幕府の瓦解を通過して、30代半ばまで生きてきた元士族の高遠彬。
「炎昼」では、元薩摩藩士の厳格な祖父と、格式や家格に拘る父の元、文明開花の世にあって、全くその恩恵を受けられない女学生の天馬塔子。
「待宵」では、弔堂に至る道の途中で甘酒屋を営む老人で、新撰組の生き残りで自分を燃え滓の様に感じている弥蔵。
彼等が悩める明治の偉人達の探書に立ち会うことにより、自らを再生していく物語でもある。
そして今回読み終わったのが、最新巻にして完結編である「霜夜」なのであった。
本作の主人公は長野から上京してきた元版木職人の甲野昇。
本の製造に関する技術革新を研究する「印刷造本改良會」という会社で、活字の元となる文字を書き起こすことが、上京してきた彼に与えられた仕事であるのだが、彼自身はそれがどんな仕事でどんな意義があるのかさっぱり分かっていない。
その彼の雇主の1人が、かつて無為な日々を送っていたが、弔堂での体験から自らの道を歩き始めた元士族の高遠彬。
高遠は彼にとって必ず役立つヒントがあるはずと甲野に弔堂を訪れることを命じたのであった。
誰もが最初はその場所を見つけられない弔堂。甲野も例に漏れず道に迷う。そして訪れた茶屋。そこはかつて生ける屍が如き生き方をしていた老人弥蔵の店なのだが、そこを仕切っていたのは第3巻「待宵」ではやたらと弥
蔵の面倒を見ようと関わってきたお節介でお調子者の青年鶴田利吉とその女房であった。
甲野が高遠から弔堂への用事を言い付けられる→鶴野の茶屋に寄る→弔堂に行って偉人に出会う。これが本作の基本構造だ。
そんな弔堂への訪問経験の中で甲野は、夏目漱石、岡倉天心、田中稲城、牧野富太郎、金田一京助、といった偉人たちの探書の場に立ち会い、多くの大きな感銘を受けることになっていくのであった。
シリーズを通じて非常に重要な概念があるのだが、それに僕は強く惹かれる。
「元々が絵であった記号に意味を持たせた文字とは呪符である。その呪符を並べた言葉とは呪文であり、その呪文を封じ込めた本とは呪物である。」
「その本の中に書かれた情報だけが必要なのであれば、本などそもそも必要ではない。本に書かれた内容よりも、書物の扉を開き、そこに書かれた呪文を読み込むという行為によって、読んだ人の中だけに立ち上がる何か(龍典はそれを「幽霊」と呼ぶのだが)が重要なのである。」
「文字はあくまで記号であってそこに現実はない。私という文字は私を意味するが、それは私自身ではない。だが文字を組み合わせた呪符を連ねた呪文を読む、という行為によってその人の中に立ち上がった想い=幽霊の中だけに現実は存在し、私という言葉は私自身となる。」
「本は本であることが重要なのである。だから本は読まなくてもいい。身近に置いておくだけでも意味がある。」
「すべての本には意味があり無駄な本は無い。本を無駄にする者がいるだけである。」
それほど多くはないが、本、レコード、CD、フィギュアなどの好きなものに囲まれて生活している僕にとっては大きく頷ける言葉である。
本でも音楽でもそうなのだが、現物を所持していたいのである。電子書籍ではダメだし、サブスクで聴く音楽は情報収集でしかない。
読み終わっても、聞き終わっても、不要なものにはならない。それを読み返すことも聞き返すこともなくても好きなものは取っておきたいのである。
中には失敗した買い物だったと思い、要らなくなるものも勿論あるが、好きななものは持っていたい。
かつてはした金に換金するために手放してしまったロックやPファンクのレコード。永井豪の漫画。移住のための断捨離で手放した本、レコード、CD。亡き父の蔵書。
いずれも全くもって仕方がないのだが、今一度手に取りたい懐かしさを憶えるのであった。
物語の中で甲野は、活字とは、それひとつでは意味するものは小さいが、組み合わさることによって文字となり、文章となり、本となり、更に役目を終えればまたバラされて、個に戻り、再び別の組み合わせによってまた別の意味を成すことの出来るモノだと思い至る。
それは雁字搦めのしがらみに縛らていた自分をリセット出来ることにも似ている。そうして彼は故郷長野に放置して、見ない様にしてきた問題に向き合い、克服していく。
明治の世も40年代に至り、本の製造、流通。販売の仕組みも大きく進歩するのだが、同時に本の価値も変わってくる。単に売買だけの価値観では、本来巡り合うべきその人だけの人生の1冊は機会を失ってしまう。
その時期を感じた弔堂店主龍典は店を閉め、その蔵書を信頼出来る人の元へ分散させ、いずれともなく去っていくのであった。その蔵書の一部を預かった1人には、自立した女性に成長した天馬塔子の姿もあった。
このシリーズが今後京極ユニバースの中でどんな影響を与えていくのかはまだ未知数である。
でも龍典の弟子であり第1巻「破暁」では7〜8歳の幼子であった少年「しほる」などはどこかで出てきそうな気がする。本作においてもまだ20代半ばの青年で、最後、天馬塔子の書舗を手伝うことを師匠から託された彼だったが「中禅寺秋彦」シリーズなどで登場してくる可能性はあるのではないだろうか。
また本シリーズにおいては中禅寺秋彦の祖父中禅寺輔が登場し、名前などは明かされなかったが、彼の父は既に誕生していた。
「巷説百物語」シリーズとの関連においても、菅丘李山こと山岡百介の膨大な蔵書は、中禅寺秋彦の曽祖父である中禅寺洲斎が引き取り、それを更に弔堂が引き取ったと言うエピソードがあったが、「巷説百物語」シリーズは完結済みだし、時系列的にももうこれ以上の関わりはないだろう。
こうして考えると2024年に作家生活30周年を迎え、多くの作品にケジメをつけた京極ユニバースの中心は、再び「中禅寺秋彦」シリーズに軸を戻すのだろうか。
現在進行形の作品は「怪と幽」に連載中の「猿」という、イマイチよく分からんヤツしか知らんが、今後も僕は京極作品を読み続けることだろう。
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