あれから14年。あの日、仙台にいた。(後編)
そんな経緯で東日本大震災の当日に仙台で被災した僕は、その後1週間近く、仙台で避難生活を余儀なくされることにななった。
後から聞いた話だが、新幹線の車中で14時46分を迎えた小林さんは、その後9時間近くは車内で待機していたという。それはそれで大変な苦労だったことだと思う。いつ東京の自宅に帰れたのだろう。
Wikipediaによると、帰宅困難者は首都圏だけでも、東京都で約352万人、神奈川県で約67万人、千葉県で約52万人、埼玉県で約33万人、茨城県で南部を中心に約10万人。
首都圏で合計515万人が当日自宅に帰れず、地震発生時の外出者の約28%が当日中に帰宅できなかったのだという。
小田原に居た姉の話では「完全に東海地震が来たんだと思った」とのこと。
僕が小田原の自宅に戻った時には、専用のラックに収納してあった7インチ・アナログ・レコード1,200枚ぐらいが全部落下していた。
みんなそれなりに当日は大変な目に遭っていたのだと、後から知ったのだった。
3月12日の出来事でかなり重要なことを忘れていた。
あの日、肌着と梅酒を買ってホテルに戻って、午後になって再度付近を探索に出た。するとちょっと大きめのイオンがあり、その駐車場に長い行列を見かけた。
近づいてみると、それは物資購入の為の行列だった。
「じゃあ、オレもオレも」という感じで僕も列に加わった。当時僕は音楽を携行する時は、iPodシャッフルを使っており、それを聴きながら順番を待った。
よく晴れた日だった。
多分14時ぐらいから列に加わって、順番が来るまで2時間ぐらいはかかったと思う。iPodシャッフルは充電が切れ、ケーブルも持って来ていなかったので、それ以降もう聴くことは出来なくなった。
2時間待って買えたものと言えば、ハッカ味の飴(ミント・キャンディとはお世辞にも言えない)、固い豆煎餅、干し芋、あと何かあったがもう忘れた。そんなもんだったと思う。
ホテルに戻ると徒労感もあったが、非常時だし、こんなもんだろうと自分を納得させ、テレビを付けると福島第1原発の1号機が水蒸気爆発を起こしていた。
映像では「ポン」ぐらいの感じに見えた。現実感に乏しい映像だった。
事故当時、風は西北西に内陸に向けて吹いていたという。その時間帯、僕は思いっ切り外の風を浴びていたんですけどね。
それ以降は特に何も出来ることは無かったので、持参してあった京極夏彦の「魍魎の匣」を読んだり、テレビを見たり、散歩したりして過ごしていた。
情報は徐々に増えてきて、ホテルのロビーに設置された情報コーナーにもいろいろ貼り出され、ニュースで見逃した情報なども知ることが出来た。
3月14日か15日頃辺りだったと思うが情報コーナーに「銀行ATMが一部復旧し、取り敢えず10万円までは引き出せる様になった」とあった。一応何かのことがあっても困るので歩きで片道30分ぐらい歩いて引き出しに行ったりもした。
部屋のシャワーも復旧した。
既に分かっていたことは、いつまで待っても新幹線で帰るのは不可能であろうということだった。
小田原に帰る方法はひとつしかない。バスで山形空港に行き、飛行機で羽田に飛ぶのだ。
日に日に市内のバスの運行などが回復し始めた。
15日を過ぎた頃からだろうか。宿泊客に消防隊や警察官っぽい人が増えてきた。全国の消防署や警察から派遣されてきた応援部隊を受け入れていたのだろう。
小田原に戻れる機運が高まってきた様な気がしてきた。
プランを練る。
山形空港に向かうには長距離バスのターミナルのある仙台市役所にひとまず行く必要がありそうだ。
そのためにはホテルの前のバス停から乗車し、一旦終点仙台駅のひとつ前のバス停で降りて、そこから市役所を経由するバスに乗り換えなきゃ行けない。
確か、何かそんな感じだった様に思う。そこから山形空港に向かう長距離バスに乗るのだ。
東方自動車道や常磐道など、関東方面への高速道路はまだイマイチ信頼出来ない。やはり方法は飛行機しかない様に思えた。
山形空港へのバスも混雑が予想されるし、羽田行きの飛行機も予約も無ければ予約センターにアクセスも出来ない。多くの便を待たされることは充分考えられる。
だがこのまま何もせずにいる訳にはいかない。早く帰らなければ。
決行はプランを練ったその翌日、3月17日と決めた。
ここまではルート・イン仙台泉インターに滞在して、差して困ることも無く、個室に寝泊まりしながら、3食キチンと、何なら毎回お代わりも食べながら、シャワーも浴びて、梅酒を飲みながら避難してきた。
しかし明日からは違う。明日からは寒さや空腹に耐え、野宿も辞さない覚悟で、何としても我が家まで帰り着くのだ。
なんて考えながらロビーに降りると「大浴場の人工温泉とサウナが復旧しました」という貼り紙がしてあった。
当然のことながら、翌日からの大冒険に備え、英気を養ったことは言うまでも無い。
翌朝、チェック・アウトを頼むと1泊3,000円とのことだった。
高いのか安いのかイマイチ分からない。食事には困らなかったが、まあ言っても大したもんではない。シャワー浴びれなかった日も4日ぐらいはあった。とは言いつつまともな個室で暖かい布団の中で寝ることは出来た。まあ良しとして、18,000円ぐらいを払ってホテルを出た。
バス停は目の前だ。
ダイヤも不安定なことは考えられるし、混雑も考えられる。しかしそんなことは覚悟の上だ。何時間でも待つ、そんな気持ちでバス停の前に立つと、もうバスがやって来るのが見えた。
待ち時間ゼロで乗り込む。
車内は混んではいたが、まあ普通の通勤通学時のレベルだ。こんなもん何てことないと手摺に捕まって乗っていると、次のバス停で目の前に座っていた人が降車した。
あっさり座ることが出来た。拍子抜けの連続だったが体力は温存しなければならない。
目的の仙台駅のひとつ前のバス停で降りて、さてここからが正念場ぐらいに思っていたら、いきなり声を掛けられた。
「山形空港までタクシーの相乗りしませんか?」と誘われた。僕が丁度4人目だった。
「はい、そうします。」
すぐさまタクシーに乗り込んで、ひとり頭、確か3〜4,000円ぐらいだったと思うが、山形空港に向かった。
そちら方面の道路は特に目立った損傷も無かったみたいだ。
渋滞などの困難に遭うこと無かった。何なら「あっちに見えるのが蔵王連峰です」ぐらいの運転手さんのガイドを聴きながらの1時間ちょいのドライヴとなった。
山形空港に着いたのは正午ぐらいだったのではないかと思う。
歩いているとテレビ・クルーにインタビューされた。聞かれるがままに答えたが、それが使われたかどうかは知る由も無い。僕はそういうのに採用される様なタイプでは無い気がする。
「ここからは乗れるまで待つのだ」という気合で発券カウンターに臨む。
するとキャンセル待ちに空きがあるという。あっさりその便に乗ることにした。
電話が繋がったので名古屋にいるはずのゆっこさんに電話する。姉ちゃんから無事なことだけは伝わってた筈なのだが、心配はされていた。まあ、それはそうだ。
とにかく今日中に小田原には帰れることを告げ、怪我も苦労も大してないことも伝えた。搭乗する前に土産店を覗き、レトルトのさくらんぼカレーを買った。
羽田に着いたのは14時台だったと思う。決死の覚悟で朝8時頃にホテルを出て、6時間後のことである。
羽田からはエアポート・リムジンで藤沢駅まで出た。
JR東海道線のダイヤはまだ正常では無かったからだ。どのみち東海道線には乗らなければいけないのだが、少しでも先に進んでおいた方が混雑が緩和されているのではないかと踏んだのだ。
藤沢駅に着いたら大分ホッとした。
見るとカレーショップC & Cがやっていた。ルートインの朝食以来何も食べていない。カツカレーを食べた。
乗り込んだ東海道線では平塚あたりから座れたので、少しウトウトしたと思う。
まだ明るい時間帯、17時には小田原に着いていたと思う。決死の覚悟のつもりだった道のりは拍子抜けするほどあっさりしていた。
ゆっこさんと再会したのは翌日のことだったと思う。名古屋から新幹線で彼女は帰って来た。
心配かけたが、聞くと、震災のことは韓国の旅行先でももちろん情報は入手していたが、日本の様に24時間映像を流していた訳でもなく、それほど緊迫した危機感はすぐには無かったのだと言う。
ただ帰り際に添乗員さんが、物凄くツアー参加者に同情する感じで送り出してきたらしい。
またセントレアに迎えに来てくれた今は亡きお義父さんが、険しい顔で車中ひと言も話さなかったらしい。
前年の10月に結婚したばかりだった我々は、まだ新婚半年も経っていなかった。
それでいきなり娘が未亡人にでもなる可能性があれば、そりゃ父親としては険しい顔にもなるだろう。
ゆっこさんも帰国後すぐには僕の安否が知れず、相当にあちこち連絡したが中々要領を得られず、姉からの情報を知ってからも釈然と出来ず、多大な心労を与えてしまった様だ。
何か、、、、。すいません、、、、。
当の本人は想像以上に楽しちゃいまして、、、、。
東北の人たちにも申し訳ないです、、、、。
そんな感じの僕の東日本大震災での被災生活だったのだが、写真は1枚も残ってない。
と言うのも、前述したが、当時僕はまだiPhoneを使っておらず、写真はもっぱらデジカメで撮影してから取り込んでいたのだが、その時は持って行ってなかった。
iCloudで見ると、前年の12月にゆっこさんとお義母さんと3人で上海旅行に行った時のクリスマスの写真を最後に、次のデータは2011年の5月に、これまたゆっこさんとお義母さんと鎌倉に遊びに行った時まで飛んでいた。
もしかして当時のガラケーで撮っていたのかも知れないが、ガラケーで撮る習慣はあまり無かった。その証拠にiCloudに移行した形跡もない。
一体何をやっていたんだ、オレは?
スケジュール管理も今ではiCloudで一括管理しているが、当時は月めくりのカレンダーに手書き。そんなカレンダーもう無いし、何月何日に何をしていたという正確なデータもない。
Facebookのアカウントは2006年からあるが、もっぱらPCでやっていて、Mac Bokk Proはその時も携行していたのだが、何もアップしていない。発信なんてしていない。
確か仙台にいる間、ネットは復旧しなかったのでは無かっただろうか。
SNSは最初の頃から個人としては嫌いだった。仕事のプロモーションと割り切って始めたことだった。だからそもそも積極性はない。
Twitter上ではレゲエ業界で僕の死亡説が流れたとか、流れなかったとか。それの真偽も分からない。
今年も3月11日がやって来た。あの日にあそこに居たことは、その後の10年間の僕の活動指針に大きな影響を与えた。
翌2012年11月、12月に、神奈川県主催のアート・フェスティバルのスタッフで働いていた時に、故田口和典さんと20年振りぐらいで再会した。
田口さんはその頃、震災後の反原発の想いから「RA~Energy Design~」というソーラー音響チームの活動を始めていて、教えを乞い、僕もソーラー音響を始めた。
環境系の市民活動に参加する様になった。反原発の映画イベントや公園でのマルシェなど多くの現場でソーラー音響を提供した。
今思い出せば、僕という人間は、50歳台においても、全然大人ではなく、多くの失敗もし、多くの人に失礼な振る舞いばかり重ねていたのではないかと思う。
でも楽しかった。こうした人生の方向性は、311が僕に示してくれた道だった。
ちょっとふざけた様な文章にはなったが、気持ちはある。偽りはない。
そうした活動も、病気で予定より7〜8年は早めにリタイヤすることになったが、後悔はない。
あれからまだ一度も東北を訪れたことはない。福島にも是非行きたいし、南部盛岡も遠野も行ってみたい。
そしていつか仙台に行って、あのルート・イン仙台泉インターに泊まって、フロントの人に「実はあの時、こんなことがありましてね。あの時はお世話になりました」と言ってみたいものだ。