君たちはどう生きるか/吉野源三郎
先日観てきた映画「君たちはどう生きるか」のタイトルとなっている吉野源三郎著の「君たちはどう生きるか」を読んでみた。
この本は、1937年に刊行された児童向け(児童というより中学生ぐらいか)の小説で、主人公の15歳、中学2年生のコペル君こと本田潤一少年と、彼の叔父さんとのやりとりを通りして、人生哲学的なことを分かりやすく伝えてくれる、といった内容のものだ。
叔父さんは多くの場合、ノートに感想をしたためて、時に彼を褒め、時に優しい言葉で正し、時に新しいものの見方を提言する。叔父さんにとってコペル君が立派な大人になる様に寄り添っていくのが、2年前に亡くなった兄、コペル君のお父さんとの約束なのである。
ある日、ビルの屋上から下を眺めていたコペル君には、地上の自動車がカブトムシの行列に見えた。と同時にもっと高いビルから自分も誰かに見られているのかも知れないことに気付いた。その時、その視点はミクロからマクロなものに拡大する。そして社会とは多くの人、モノ、出来事との密接な関わりによって構成されていることに思い至る。ひとりの人間はそれを構成する小さな分子のひとつに過ぎない。この気付きが非常に大切なことだということを彼が忘れない様に、天動説の時代に地動説を唱えたコペルニクスに例えて、叔父さんは潤一少年をコペル君と呼ぶようになるのであった。
学校内でのいじめや、先輩による理不尽な圧力、心ならずとも友人を裏切る様な行動をとってしまったコペル君の苦しい心情など、日常の何気ない事柄を題材に、叔父さんは優しく彼の思索を深めていく。終盤の第9章「水仙の芽とガンダーラの仏像」では、世界中の文化の繋がりとその重要性を説いていく。
物語の最後にコペル君は「僕はすべての人がおたがいよい友だちであるような、そういうような世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。」(以上、原文より抜粋)と、叔父さんに向けたノートに書き記す。
そして作者は問いかける。
君たちはどう生きるか。
何をおいても重要なのが、この本が出版された時代背景である。
作者本人よる後書き的な「作品について」で詳しく説明されているが、本書は「路傍の石」などで知られる作家山本有三氏が編纂し、1935年から新潮社より刊行された「日本小国民文庫」の最後の配本であるとのこと。
1935年とは、日本の軍部が満州事変以降、大陸への進出を本格化させたその4年後。軍国主義が日本中を覆っていた頃。そして「君たちはどう生きるか」が刊行された1937年7月とは、その後、8年間続くこととなる日中戦争の口火となった、盧溝橋事件の起きた、丁度その同じ月だ。ヨーロッパではヒットラー、ムッソリーニが政権をとり、ファシズムが大きな脅威となって席巻。第2次世界大戦が現実のものとして近づいてきた頃である。
「日本小国民文庫」は、このような時勢を踏まえて計画されたものであるという。
軍国主義の勃興ととも言論の自由はすでに厳しく統制/弾圧されていたが、山本有三は「少年少女に訴えかける余地はまだ残っている。せめてこの人々だけは時勢の悪い影響から守りたい。」、「今日の少年少女こそ次代を背負うべき大切な人たちである。この人々にこそ、まだ希望はある。だから、この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を超えた、自由で豊かな文化があることを、なんとしてもつたえておかなければならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない」(以上、原文より抜粋)と強く思い立ち、行動に移したとのことらしい。
こうした時代背景を考えると、本書が、いろいろな例えに置き換えつつも、思慮深いテーマを慎重に取り扱っていることが分かる。横暴な先輩たちは危険な全体主義であり、ナポレオンの話は英雄と呼ばれる人物を評価する際の視点の在り方、ギリシャ人が彫ったと言われるガンダーラの仏像は、太古から続く人類の文明の共鳴の象徴であり、偏狭な国粋主義への反論である。
映画「君たちはどう生きるか」における関わりと言えば、主人公11歳の少年眞人の亡くなった母ヒサコが「大きくなった君へ」(だったかな?)というメッセージと共にこの本が残されていたということになっている。
映画の時代設定は第2次世界大戦が始まって3年後というから1943年か4年だ。本書が刊行されてから6〜7年後。軍需工場を経営する父の傍で、母は眞人に、場合によっては非国民と言われかねない思想を、密かに伝えたいと考えていた、ということになる。
宮崎駿自身が投影されているという主人公眞人。監督の小学生の頃に、本書の冒頭部分が教科書に掲載されていて、深い感銘を受けたのだと言う。
といった内容なのだが、そういったことはさておき、とにかく気になってしまうのが、読んでるうちに登場人物がどうしても、見たことのある様なジブリのキャラクターとして脳内で連想されてしまうということだ。
でもその連想も悪くはない。
背が小さいが利発で好奇心旺盛なコペル君。
優しくて気弱で裕福な家庭の水谷君。
コペル君同様背は低いが頑丈な体つきで勇敢な性格の北見君。
胴長でおっとりしていて、授業中居眠りばかりしているが、実は家業の豆腐屋を朝早くから手伝っている浦川君。
勝ち気でお洒落で聡明な、この時代にしては自立した女性である水谷君のお姉さんのかつ子さん。
優しいコペル君の叔父さんとお母さん。
なんかまんまジブリだ。
映画の後に本書を読んで、実際には作られてはいないアニメ版の本書を幻視する。
そんな不思議な読了感だ。